2018年04月09日 公開
2019年03月27日 更新
寛保元年4月10日(1741年5月24日)、絵島(えじま)が亡くなりました。江戸城大奥御年寄で、絵島生島事件で知られます。
天和元年(1681)に生まれた絵島(江島)は、旗本・白井平右衛門の養女となり、甲府徳川家に仕えました。やがて藩主綱豊が6代将軍家宣となると、それに従って大奥入りし、家宣の側室・お喜世の方の右腕となります。そしてお喜世の方が鍋松を生み、正徳2年(1712)に将軍家宣が死去したため、翌年鍋松が7代将軍家継となると、お喜世の方(落飾して月光院)は将軍生母として君臨、絵島も大奥御年寄として権勢を振るうことになりました。
事件が起きるのは、正徳4年(1714)1月12日のことです。34歳の絵島は月光院の名代として、前将軍家宣の墓参に出かけ、その帰途、懇意の呉服商の案内で木挽町の山村座で生島新五郎の芝居を観ました。芝居が終わると、絵島らは生島らを茶屋に招いて宴会をしますが、そのために大奥の門限に遅れてしまいます。絵島一行の大奥入口での「通せ、通さぬ」の騒ぎは幕府が問題視するところとなり、評定所の審議では絵島と生島の密会が疑われました。結果、絵島は遠島(のち罪一等を減じて高遠藩お預け)、絵島の兄は死罪、生島と山村座の座元も遠島と、一説に関係者1500人が処罰されました。
これだけを見ると、幕府の風紀取締り事件ですが、実は裏があります。大奥に君臨する月光院と御年寄の絵島は、家継の学問の師で幕政の中心であった新井白石や側用人の間部詮房らと親しく、まさに当時の幕府の表裏を牛耳るかたちでした。これに反感を抱いていたのが、大奥では前将軍家宣正室の天英院をはじめとする勢力で、これと新井、間部体制の幕政を快く思わない老中らが結託し、月光院・新井ラインの転覆を図るために、絵島事件を仕組んだ可能性が高いようなのです。
特に絵島と生島の密会容疑のスキャンダルは月光院らにとっては致命的ともいえるものですが、こうしたスキャンダルを捏造して、政敵の追い落としを行なうのは、洋の東西を問わず現在でもよく行なわれています。
絵島囲み屋敷(長野県伊那市高遠町)
長野県伊那市高遠町に「絵島囲み屋敷」があります。質素な建物で、もちろん外には自由に出ることはできず、座敷牢を思わせるものです。冬はさぞかし寒かったろうと思われます。絵島はここで20数年間、朝夕一汁一菜の食事で魚類はほとんど取らず、着る物は木綿のみという中で、主に読経して過ごし、61歳で没しました。どんな心境で過ごしたのかは想像するしかありませんが、悔悟と怒りと諦めを経て、最後は信心に救いを求めていたのかもしれません。
絵島の歌が残ります。
浮き世には また帰らめや 武蔵野の 月の光の かげもはづかし
更新:11月13日 00:05