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Q&A・大奥はどんなところ?[事件編]

2013年01月09日 公開
2022年12月07日 更新

楠戸義昭(歴史作家)

『歴史街道』2013年1月号より/イラスト:山下正人

<滝山>は、大奥に40年以上奉公し「大奥の生き字引」といわれる御年寄(大奥最高位)。新参の娘<おささ>の教育のため、その質問に答えます。

 毒、放火、色仕掛け… 女の園を揺るがした大事件

 <おささ> 
 男子禁制の大奥の女中でも、城の外では羽目を外してしまう者もいたのはまことですか?それが元で、おぞましい事件も起きたとか…。

<滝山>
 ……°
 新参のそなたにはちと早いかもしれませぬが、女たちの欲望や争いを知っておくことも大切でしょう。女の園であるがゆえに、愛憎や権力欲も露骨に顕われます。そしてそれらが風紀の乱れや静い事をきっかけとして、思いも寄らぬ大事件を引き起こすこともよくあるのです。それゆえわたくしが、常に目を光らせておるのですぞ。決して、興味本位で覗いておるわけでは…。

 

〔Q1〕 御台様や御側室の派閥争いなどはあるのですか?

 6代家宣公がお隠れになり、落飾して西の丸大奥に移られた御台様の天英院様と、4歳で新たに上様となられた家継公の御生母・月光院様の争いは熾烈でした。月光院様は29歳で大奥に君臨きれると、老中格の間部詮房〈まなべあきふさ〉様を大奥の自室に引き入れ、わりない仲になられました。これを下が見習い、近臣は宿直の場で女中と通じるなど風紀は大いに乱れました。そんな最中の正徳4年(1714)、筆頭御年寄で34歳の絵島殿が、月光院様の代参で芝増上寺にお参りした帰り、木挽町の山村座に総勢130人の女中衆で歌舞伎見物に繰り込んだのです。人気役者の生島新五郎も接待に出て、江戸中の評判になったのでした。

 日頃から月光院様の淫乱豪奢を、苦々しく見ておられた天英院様は、月光院様側近の絵島殿の行状を槍玉にあげ、幕府は絵島殿の行き過ぎを断罪し、信州高遠に遠流とし、連座した1500人余りを処罰したのです。

 天英院様は勝って溜飲を下げられましたが、お2人の争いはまだ続きました。家継公が8歳でご他界されると、次の上様に尾張様を推す天英院様と、紀州様を推す月光院様がまたも衝突したのです。ここで、亡き家継公の後見役だった間部様が月光院様と結託して「紀州様が跡を継がれることが、家継公のご遺志である」と、遺言を披露します。真偽のほどは別として、誰も反論できず、紀州の吉宗公が新たに上様となられました(諸説あり)。このため、吉宗公は月光院様には頭が上がらず、大奥の軽費削減で大鉈を振われた時も、月光院様だけは例外扱いされました。

 

〔Q2〕 大奥を揺るがせた事件はありましたか?

  はい。11代家斉公の御時にございました。家斉公は生涯で40人を超える御側室をお持ちになり、53人もの御子を授かった精力絶倫の上様でございました。その家斉公から一番の寵愛を受けられたのが、3人の姫君をお産みになったお美代の方様でした。旗本の養女の身分でしたが、実父は何と破戒僧でございます。下総中山村(千葉県市川市)の日蓮宗・中山法華経寺の子院・智泉院の住職で、日啓と申しました。お美代の方様は家斉公におねだりして、江戸城から7里(約28キロ)もある法華経寺を将軍家祈祷所とし、智泉院をその祈祷取次所にしてもらいます。すると、たちまち大奥女中のお参りが相次ぐこととなりました。日啓は美僧を用意して淫行の部屋まで造り、大奥女中をもてなして味方につけたのです。日啓はこの成功にさらに野心を広げ、江戸市中に大伽藍を造りたいと、また娘に上様へのおねだりをさせました。家斉公はまたもお美代の方様の言いなりになり、3万坪の土地と資金を出されました。それによって完成したのが、感応寺です。日啓はここでも美僧を集めました。すると、感応寺の美僧に逢いたくて長持に潜んで大奥を抜け出し、姦淫する女中まで現われたのです。

 ですが家斉公がご他界あそばされると、幕府は粛清に乗り出します。感応寺は破却、日啓は捕縛されて牢獄死し、お美代の方様も大奥から追放されたのでした。

 

〔Q3〕 将軍の後継争いはいかがでしたか?

  13代家定公の後継者をめぐる紀州家慶福〈よしとみ〉様と水戸家ご出身の一橋慶喜様の争いが、最も激しゅうございました。これには大奥が一役買いまして、主役の1人が実はわたくしだったのです。と申しますのも、水戸藩主の斉昭公は倹約家で口うるさく、大奥の浪費を問題にしておられたので、斉昭公の御子息であられる慶喜様が上様となれば、大奥は縮小されると懸念していたためです。また、家定公の母上の本寿院様は、家定公が紀州家の血を引くため、後継者はやはり紀州家が良いと考えておられました。

 ところが、越前藩主の松平慶永(春嶽)様や薩摩藩主の島津斉彬様ら、斉昭公と親しいお歴々は、反一橋色の強い大奥を懐柔しようと、天璋院(篤姫)様を家定公の御台様として送り込んできたのです。わたくしたちは天璋院様を排斥しました。大奥工作に失敗した一橋派は、今度は朝廷を動かし、慶喜様を後継にせよと朝廷から圧力をかけました。これには家定公も不愉快に思われ、大老の井伊直弼様らは激怒いたしました。本寿院様以下、わたくしたち大奥主流派は井伊様を守り立てまして、ついに慶福様(家茂と改める)を後継とすることに決まったのです。この争いは安政の大獄、桜田門外の変といった大事件を誘発することとなりました。けれども、大奥では嵐の後に凪が訪れ、わたくしは対立した天璋院様と仲良くなり、お助けする立場になったのでございます。

 

〔Q4〕 「家事は江戸の華」といいますが、大奥は無事でしたか?

  それについては、わたくしの体験したことからお話しいたしましょう。まだ御年寄に昇進する前、天保15年(1844)5月の激しく雨が降る未明のことでございました。叫び声に飛び起きると、すでに長局は火に包まれておりました。12代家慶公はずぶ濡れになられ、閏を共にされていたお琴の方様と裸足のままで吹上御庭に命からがらお逃げになられるほどでした。この火災は大奥女中46人が焼け死ぬ大惨事となり、表御殿までも焼けてしまいました。本丸大奥の火災は明暦の大火以来のことで、再建後190年近く使われてきた殿舎が焼け落ちてしまったのです。

 火元は一の長局で、当時、上様のご信頼を勝ち得ていた上﨟御年寄の姉小路様の湯殿でございました。しかし、姉小路様はこれをお認めにならず、火元は隣の梅渓様の部屋だと言い張られたのです。老中・水野忠邦様は姉小路様の権勢を恐れて事実をひん曲げ、梅渓様を処罰されました。皆変だと思いながら、異議を唱える者はおりませんでした。そして本丸殿舎は直ぐ再建されたのでございます。

 

〔Q5〕 滝山様も災難に遭われたそうですね?

  ええ、一連の事件はつい最近(1863年)のことでございます。今の上様・14代家茂公は、形の上では家定公の御養子として将軍家を継がれたために、家定公の御台所・天璋院様が母上となられました。これには上様御生母の実成院様がご不満で、朝から酒を飲み、歌舞音曲で騒ぎ立てるなどされ、大奥の顰蹙を買っておられました。それでも配下の御年寄の藤野様が何とか暴走を抑えておられていたのですが、藤野様が病気で宿下がりされた時に実成院様は羽目を外されたのです。大奥総取締のわたくしとしては、注意しないわけには参りませんでしたこれを実成院様が根に持たれたのです。

 やがて藤野様は病が癒え、その全快祝いにはわたくしもお招きに与りました。ところが、その席で鯉の味噌汁を飲むと、苦い味がして急に具合が悪くなり、高熱で意識をなくしてしまったのです。実は、毒が盛られていたのですが、幸いにもわたくしは10日余りで本復することができました。

 それからひと月ほど後の深夜、わたくしの部屋の一角で薪を積んであった場所が放火されることがございました。火はすでに天井まで廻っておりましたが、部屋の者たちが必死で消し止めてくれ、大事に至らずに済みました。結局、毒も放火も実成院様お気に入りの御次2人の仕業ということになりました。実成院様がお命じになったに違いないのですが、上様の母上を犯人にはできないということで、事はうやむやになりました。

 さよう、大奥は一事が万事、何が起こるかわからない、魁魅魍魎の棲む世界といえましょう。十分、心して奥勤めに励みなされ。このようなわたくしの話がお役に立つかわかりませんが、またお聞きになりたいことがあれば、いつでもお話しいたしましょう。

 

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