2017年09月13日 公開
2018年08月28日 更新
寛永20年9月14日(1643年10月26日)、春日局が没しました。3代将軍家光の乳母で、江戸城大奥の基礎を築いたことで知られます。
春日局こと斎藤福は、天正7年(1579)に斎藤利三の娘として、利三が領していた丹波黒井城下に生まれました。利三は明智光秀の重臣で、丹波黒井城を任されていたのです。
天正10年(1582)の本能寺の変の一因となったのが、斎藤家と縁の深い土佐の長宗我部氏征伐問題でした。利三の存在が光秀の謀叛の後押しをしたともいわれます。その真偽はともかく、信長を討った光秀は山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、利三も捕らえられて処刑されました。娘の福は一時期、土佐の長宗我部氏を頼ったともいわれますが、その後、母方の縁者にあたる公家の三条西公国に養育されて、教養を身につけました。
やがて小早川秀秋の家臣・稲葉正成の後妻となります。正成といえば関ケ原の折、松尾山に陣取る主君・秀秋に対して、東軍に寝返ることを強く勧めた人物として知られ、徳川家康にとっては、勝利の一因をつくった人物です。
ところがその後、福は正成と離縁するかたちをとって、慶長9年(1604)に将軍徳川秀忠の嫡男・竹千代(家光)の乳母に任命されました。福が選考されたのは、夫・正成の関ケ原の功績が大きかったといわれますが、なぜ福が乳母になろうとしたのかについては、詳細はわかりません。
慶長11年(1606)に家光の弟・忠長が生まれると、秀忠・江夫妻は忠長を溺愛し、家光と忠長の間に家督争いの兆候が生まれました。憂慮した福は一説に単身、駿府の大御所・家康のもとを訪れ、家光の家督相続を訴えたといいます。それを受けて家康は、兄と弟の序列を明確にし、家光の世継ぎが決まったというわけです。家光が祖父・家康を深く敬愛し、自ら「二世権現」と称したのも、あるいはこうした経緯があったからなのかもしれません。
また、家光の生母・江が没すると、福は将軍のプライベートな場である「大奥」の組織的な整備を行ないます。大奥の最高権力者は本来、将軍の正室である御台所ですが、家光と正妻の鷹司孝子の仲が良くなく、孝子は御台所とは呼ばれずに、大奥の実権は福が握りました。そして家光の側室探しに尽力したといわれます。
寛永6年(1629)には御所に昇殿し、後水尾天皇や中宮和子(家光の妹)に拝謁、従三位と「春日局」の称号を賜りました。寛永20年没。享年64。墓所は湯島の麟祥院にありますが、墓石に丸い穴が開いています。これは死後も、幕府の政道を見通せるようにという意味であるともいわれますが、幕府内でも大きな権力をもっていた福だけに、その後の老中たちも何となくプレッシャーを感じたかもしれません。
更新:11月24日 00:05