文政11年1月11日(1828年2月25日)、山本覚馬が生まれました。幕末の会津藩士で、新島(山本)八重の実兄です。今回は彼の卓見を示す『管見』に触れつつご紹介しましょう。
文政11年に会津藩砲術師範役・山本権八の長男に生まれた覚馬は、妹の八重よりも17歳年上です。母親の佐久は、会津城下でいち早く種痘を勧めたように先見の明がありましたが、覚馬もまた先を見抜く力に優れていました。そんな覚馬は嘉永3年(1850)に江戸に遊学し、佐久間象山に入門。それはある意味、覚馬の生涯を決定づける師匠との出会いでした。 象山塾で覚馬は、最新の洋式砲術を学ぶだけでなく、世界情勢や今後の日本の海防について考えることになります。
嘉永6年(1853)に再び江戸に赴いた覚馬は、黒船来航の騒ぎに直面し、象山のもとで、今後の日本が目指すべきものについて確信を得ることになります。それは、科学力に優れた欧米列強と今、干戈を交えても勝算はないため、国を開いて西洋の文物の優れた点を学び、日本の近代化を図って、西洋に劣らぬだけの国力を早急につける、というものでした。攘夷という考え方は当時の日本人の誰もが抱いていましたが、象山譲りのそれは、「夷の術をもって夷を制す」、極めて合理的な発想に基づくものです。
しかし、時代は攘夷そのものよりも、攘夷論をもって弱腰の幕府を西南雄藩が圧迫する様相になります。特に桜田門外の変で大老の井伊直弼が討たれると、尊王攘夷を掲げる過激な浪士たちは京都で、幕府に協力した者たちを「天誅」と称し暗殺するようになりました。この京都の治安維持のために、強大な警察権を持つ役職として京都守護職が設けられ、覚馬の会津藩が文久2年(1862)に任じられることになりました。いわば過激な尊攘浪士を取締り、西南雄藩の謀略と対峙する最前線に、会津藩の主従は立たされるのです。
そんな中でも覚馬は文久3年(1863)、『守四門両戸之策』という海防の建白書を藩主・松平容保に提出します。全国の諸藩が石高に応じて資金を出し、四つの海峡と二つの湾に蒸気船の軍艦を配備する案でした。覚馬にすれば、政争などをしている場合ではないというところでしょう。しかし覚馬の思いとは裏腹に、京都の政争は過熱し、元治元年7月には恩師の佐久間象山が暗殺されました。象山は幕府を助け、開国して西洋の文物を取り入れることを説きましたが、過激な攘夷派は聞く耳持たなかったのです。
その直後、長州勢が御所に攻め寄せる禁門の変が起こり、覚馬も砲兵隊を率いて応戦しました。象山と志を同じくする覚馬にすれば、無益な戦いに感じられたはずです。その後、覚馬は病のために視力が急激に衰えていきます。砲術家にとっては、致命的な病でした。覚馬は新式銃の買い付けも兼ねて長崎に赴き、蘭医ボードウィンの診察を受けますが、失明することを宣告されます。覚馬にすれば絶望的な宣告のはずでしたが、彼はここで強靭な精神力を示します。光を失うのであれば、自分は日本のために何ができるかを考えるのです。そして覚馬は、これからの日本の進むべき道、近代化の具体像を明らかにすることを目指しました。
覚馬は蘭医ボードウィンをはじめ長崎で外国人に接して欧州の国家のあり方を聞き、京都に戻ると、勝海舟の紹介で知り合った西周や赤松小三郎らと意見を交わして、日本が目指すべき近代国家のかたちを具体化していきます。そして慶応4年(1868)6月、覚馬は鳥羽伏見の戦いの最中に薩摩藩に捕縛されますが、幽閉されている中で、同囚の会津藩士に口述筆記をさせてまとめた建白書が『管見』でした。23項目(22項目とする資料が多いですが、実際は23項目)にわたり、日本の近代化の方策を具体的に述べたもので、その根幹は殖産興業を中心とする物づくりと、教育による人づくりでした。具体的には「政権」「議事院」「学校」「変制」「撰吏」「国体」「建国術」「製鉄法」「貨幣」「衣食」「女学」「平均法」「醸造法」「条約」「軍艦国律」「港制」「救民」「髪制」「変仏法」「商律」「時法」「暦法」「官医」の23項目です。
この『管見』を、薩摩藩を通じて新政府に提出した覚馬は、内戦の非を唱え、会津戦争を食い止めようとしますが、薩長両藩は黙殺します。この時の覚馬の悔しさは、いかばかりかという気持ちになります。 そして「勝てば官軍」の価値観に対し、覚馬は維新後、決然と対立していくことになるのです。
更新:11月22日 00:05