2017年09月26日 公開
2022年06月15日 更新
赤穂城にある山鹿素行像
貞享2年9月26日(1685年10月23日)、山鹿素行が没しました。儒学者で、山鹿流兵法の祖としても知られます。
元和8年(1622年)、素行は陸奥国会津で浪人・山鹿六右衛門貞以の息子に生まれました。幼名佐太郎、通称は甚五右衛門。父の六右衛門は関一政の家臣でしたが、同僚を斬って会津に立ち退き、町野長門守の食客になっていたといわれます。寛永5年(1628)、素行は7歳の時に江戸に出ると、9歳で林羅山に入門して朱子学を学び、15歳の時には小幡景憲、北条氏長のもとで甲州流軍学を学びました。寛永19年(1642)、21歳で印可を受けた素行は、それらをもとにしてやがて山鹿流兵法を生み出すに至ります。
山鹿流兵法の特徴は、単に戦術に重きを置いた軍学ではなく、戦乱の世が終わり天下泰平となった武家社会において、武士の生き様はどうあるべきかを探究し、武士道精神を示した点にありました。それは、素行が朱子学を学んでいたことと深く関わっています。幼い頃から朱子学に接していた素行でしたが、やがて「無窮にして太極」といった形而上的な、抽象的な教えに強い疑いを抱くようになりました。そして朱子などの注釈によらず、古来の孔子・孟子本来の教えを直接取り込みながら、実践的な儒学と兵学を融合させようと図ったのが、山鹿流兵法であったのです。
しかし、官学である朱子学を否定した『聖教要録』などの著作は幕府の怒りをかい、素行は寛文6年(1666)、45歳の時に播州赤穂藩に預けられることになります。とはいえ浅野家は約10年にわたって素行を優遇し、彼を兵学の教育に当たらせました。この時に教えを受けた一人に、後に赤穂藩国家老となる大石内蔵助良雄がいました。内蔵助だけでなく、赤穂藩士たちの精神に、素行が少なからぬ影響を与えたであろうことは想像できます。また素行は、藩主・浅野長直の依頼を受けて、整備中の赤穂城の縄張の手直しもしました。
延宝3年(1675)、54歳の素行は許されて江戸に戻り、軍学を教えたといわれます。貞享2年(1685)、64歳で死去。 元禄15年(1703)の赤穂浪士討ち入り以後、山鹿流兵学は実戦的な軍学として、さらに人気を博しました。吉田松陰も山鹿流兵学者であったこと、また乃木希典が殉死する前、皇太子(後の昭和天皇)に愛読書である山鹿素行の『中朝事実』と『中興鑑言』を奉呈しているところを見ても、素行の影響力は後世まで極めて大きかったといえるのではないでしょうか。
更新:11月23日 00:05