2017年09月24日 公開
2018年08月28日 更新
安政6年9月24日(1859年10月19日)、佐藤一斎が没しました。美濃・岩村藩出身の儒学者で、その著『言志四録』は、西郷隆盛をはじめ、幕末の志士に大きな影響を与えたことで知られます。 佐藤一斎といってピンとこない方でも、佐久間象山、山田方谷、大塩平八郎の師匠といえば、およその見当がつくのではないでしょうか。今回はその著『言志四録』の言葉などを中心に紹介してみます。
一斎は安永元年(1772)、美濃岩村藩家老・佐藤信由の次男として、江戸藩邸に生まれました。通称は捨蔵。若い頃、大坂に遊学して懐徳堂の中井竹山に学問を学んでいます。 寛政5年(1793)、22歳の時に、藩主の3男・松平乗衡(のりひら)が幕府儒官・林家に養子として迎えられ、林家当主の林述斎になると、一斎もその門弟として昌平坂学問所に入学。 文化2年(1805)、34歳の時には塾長になり、師の林述斎とともに門弟の指導に当たりました。さらに天保12年(1841)に述斎が没すると、70歳の一斎は儒学の大成者として幕府が公認していたこともあり、昌平坂学問所(昌平黌)の儒官(総長)となりました。 一斎は官学である朱子学を講じつつ、その学識は陽明学にも及び、門弟3000人を育てたといわれます。 主な門人に前述の佐久間象山、山田方谷、大塩平八郎の他、渡辺崋山、横井小楠らがおり、江戸時代末期から維新にかけての影響力の甚大さが偲ばれるでしょう。
そんな一斎が、およそ40年の歳月をかけて著したのが『言志四録』と呼ばれる4巻の書物です。 そこには学ぶこと、生きることの大切さが語られ、西郷隆盛は全1133条の中から101条を抜粋抄録して『南洲手抄言志録』にまとめています。 以下、その中からいくつかの言葉を紹介しましょう。
「少にして学べば、すなわち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、すなわち老いて衰えず。老いて学べば、すなわち死して朽ちず」(『言志晩録』60条)。学問はいつ始めても有益であることを説いています。
「多少の人事は皆これ学なり。人謂う『近来多事にして学を廃す』と。何ぞその言のあやまれるや」(『言志晩録』163条)。 日々の仕事、生活のすべてが学問である。人はよく忙しいために学問ができないなどというが、それは間違いである、と喝破します。
また『言志後録』には、知識偏重教育に警鐘を鳴らすような、次のような内容があります。「孔子の学問は、自ら修養を努め行ないを慎むことに始まり、人民を安んずることに至るまで、実際の物事を処するための実学であり、『書物に学ぶ、実行、真心、信義』の4つを重視した。 そしてただ覚えるだけの暗記は重視せず、だから当時の学者は頭の明敏の差はあっても、それぞれの持ち味を発揮して大成できた。ところが最近は、学問が堕落して暗記術一辺倒となり、記憶力が良く、知識の多い者のみが優秀な人ということになってしまった。つまり記憶術に長けた人が学問に秀でた人とみなされ、「才能と人格を磨き、それを実践する」という学問の真の意味からかけ離れてしまった」(『言志後録』4条を意訳)。 江戸時代の話ですが、まるで現代の教育のことを指しているかのようです。一斎の言を信じれば、そうした暗記に終始していた人の中からは、幕末に活躍する人は生まれていなかったのだろうと思えてきます。
「我れはまさに人の長処を視るべし。人の短処を視ることなかれ」(『言志晩録』70条)。 これは人を育てる立場にある者の心得として、現代でもよく言われます。少々の過失には目をつむり、長所を伸ばし活用することで実績をあげさせる、加点主義の大切さです。
「太上は天を師とし、其の次は人を師とし、其の次は経を師とす」(『言志録』2条)。 最上の人は天地自然の真理を師とする。人や書物も師にはなるが、いつも必ず正しいとは限らないからだとしています。イデオロギーや固定観念にとらわれず、素直に現実を見る目の大切と受け取れます。
安政6年、一斎は官舎にて没しました。享年88。当時としては相当な高齢ですが、矍鑠として教鞭を執っていたことにも驚かされます。 幕末の志士たちに影響を与えた点で、一斎も見直されるべき人物の一人かもしれません。
更新:12月10日 00:05