2017年08月08日 公開
2023年04月17日 更新
昭和17年(1942)8月8日、第一次ソロモン海戦が行なわれました。夜戦における日本軍艦隊の圧勝として知られます。
ミッドウェー海戦の敗北の痛手を引きずったまま、日本海軍がソロモン諸島のガダルカナル島(ガ島)に飛行場建設のための先遣隊を上陸させたのは、昭和17年7月1日のことでした。もし日本軍がガ島に航空基地を設ければ、日本への反攻拠点となるオーストラリアは孤立を余儀なくされます。アメリカ軍はこの事態を重く見て、ガ島奪取作戦を発令しました。
かくして3隻の空母からなる機動部隊を中核に、75隻もの艦艇を動員、これに守られた海兵第一師団1万7000人を載せた輸送船団が8月7日早暁、ガ島と対岸の島・ツラギに上陸。ガ島の日本軍設営隊は、抗す術もなくジャングルに逃げ込むのがやっとでした。同日午前、この飛報に接した在ラバウルの第八艦隊司令長官・三川軍一中将は、極めて迅速に対応します。周辺で別の任務についていた麾下の艦艇を集め、ガ島に進出してきた敵輸送船団を、翌8日夜に攻撃することを決断するのです。三川中将は真珠湾攻撃の折、第二航空戦隊司令官・山口多聞中将とともに、南雲司令部に対して、第二回攻撃を意見具申したことで知られます。機を見るに敏な闘将でした。
7日14時30分。三川は重巡「鳥海」に座乗し、軽巡「天龍」「夕張」、駆逐艦「夕凪」を率いてラバウルを出撃。湾外で重巡「青葉」「加古」「衣笠」「古鷹」と会同すると、単縦陣でガ島を目指します。この日の夕刻、第八艦隊の上空をフラフラになりながら、ラバウルを目指す1機の零戦がすれ違います。ガ島上空で重傷を負った坂井三郎の零戦でした。翌8日早朝、ブーゲンビル島北東に達した第八艦隊は、オーストラリア空軍機に発見されます。しかし敵の現地指揮官は、第八艦隊はガ島とは別方向に進んでいると判断しました。
一方、知らせを受けたアメリカ軍機動部隊は、第八艦隊の後方に日本軍機動部隊がいることを疑い、空母を戦線離脱させます。これが結果的に第八艦隊のガ島突入を容易にしました。そして8日夕刻、三川は全軍に訓示します。
「帝国海軍ノ伝統タル夜戦ニ於テ必勝ヲ期シ突入セントス。各員冷静沈着宜シク其ノ全力ヲツクスベシ」
第八艦隊は幸運にも敵に悟られず、ガ島のエスペランス岬を右に見るかたちで狭い水道に入りました。一方、米豪連合軍は機動部隊が戦線離脱したため、重巡3隻、駆逐艦2隻からそれぞれ成る南方部隊、北方部隊が輸送船団を護衛しています。
23時31分、三川は「全軍突撃セヨ」を命令。味方の水上偵察機が吊光弾を投下し、敵艦影が浮かび上がると、旗艦「鳥海」が魚雷を放ちます。後続の艦も次々に魚雷を発射しました。水上艦艇による敵泊地への夜襲、まさに「殴り込み」です。
まず、「第一次戦闘」開始数分で、連合軍南方部隊は重巡「キャンベラ」が航行不能(後に沈没)、重巡「シカゴ」が大破、駆逐艦「パターソン」が中破し、残りの艦艇は慌てて避退しました。続いて「鳥海」は左舷に敵艦影を発見。「第二次戦闘」を開始します。新たな敵は北方部隊でした。目測距離5000mで「鳥海」はサーチライトを敵艦に照射しつつ、砲撃を開始。後続の「青葉」「加古」「衣笠」もこれに続きます。 さらに後続の「古鷹」以下は、「第一次戦闘」の時に混乱が生じて隊列から分離していましたが、「鳥海」のサーチライトで状況を把握。 敵を挟撃するように北上し、「鳥海」らと逆側から敵艦隊を包み込むかたちでの攻撃となります。 これによって北方艦隊の重巡「ビンセンス」「クインシー」「アストリア」を撃沈しました。結果、第八艦隊は敵重巡4隻撃沈、同1隻大破、駆逐艦1隻大破、同1隻中破という損害を敵に与え、味方の喪失ゼロという大勝利を上げたのです。
日付が変わった9日0時23分、三川は麾下の艦隊に「全軍引揚」を命じ、ラバウルへの帰途につきました。当初の目的であった敵輸送船団攻撃は行なわなかったのです。理由は、態勢を整えて攻撃を始めれば、間もなく夜明けとなり、敵航空機の攻撃に晒される恐れあり、というものでした。その後のガ島における死闘を知る後世の我々からすれば、この時、第八艦隊がさらに輸送船団を攻撃していれば、米軍のガ島攻略は頓挫していたかもしれないと思ってしまいますが、敵機動部隊の位置がわからない三川にすれば、やむを得ない判断だったでしょう。
いずれにせよ、第一次ソロモン海戦は、日本海軍の圧勝となり、ガ島周辺の敵艦艇は一時的にせよ一掃されました。残りは3隻の敵空母をどうするか。かくしてミッドウェー海戦以来の日米空母部隊対決となる、第二次ソロモン海戦を迎えることになります。
更新:11月21日 00:05