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戦艦大和、本領発揮の機会、ついに訪れず

2013年09月27日 公開
2022年11月14日 更新

『歴史街道』編集部

『歴史街道』2013年10月号より

戦艦大和

ソロモンの激闘に加わることなく、大和がトラック島で無為な日々を送るうちに、戦況は刻々と悪化していった。起死回生の「艦隊決戦」を期待したマリアナ沖海戦でも大和の出番はなく、レイテでは謎の反転で勝機を逸する。世界最強を誇示できぬまま、大和に最後の時が近づいていた。

 

完敗した艦隊決戦

 戦局を左右するだけの力をもっていた世界最強の戦艦・大和であったが、日本海軍は充分に活用することができなかった。

 ミッドウェー海戦(昭和17年〈1942〉6月)でも、また、その後のガダルカナルの攻防(昭和17年8月~昭和18年2月)や、ニューギニアの攻防など南太平洋の戦いでも、大和は活躍の場を与えられぬまま時を空費。昭和18年(1943)12月にはトラック沖で米潜水艦の魚雷を被雷し、翌年4月まで呉で修理を行なうこととなった。

 昭和19年(1944)6月、米軍のサイパン島攻略を阻止すべくマリアナ沖海戦が生起する。襲来する米艦隊は空母15(艦載機 896)、戦艦7、巡洋艦 21。対する日本の連合艦隊は空母9(艦載機 439)、戦艦5、巡洋艦 13、さらに基地航空隊の戦力をもって撃滅を期した。頼みの基地航空隊は各個撃破されてしまうが、連合艦隊は敵機動部隊をいち早く発見。艦隊決戦の好機到来とばかりに、空母部隊は 700キロ以上も遠方の敵に向けて攻撃隊を発進させる。敵からの攻撃が届かぬ距離から打撃を与える「アウトレンジ戦法」で挑んだのである。

 だがこの遠距離攻撃は、南太平洋の消耗戦で熟練搭乗員を失っていた航空隊には、あまりに荷が重かった。さらに、レーダーで日本軍機接近を捕捉していた米機動部隊に待ち伏せされる。2日間で 378機の航空機を損失。敵艦を1隻も撃沈できず、日本側は空母3隻を撃沈される完敗を喫してしまう。

 この時、大和は他の戦艦と共に、空母部隊の前衛にいた。航空攻撃、および水雷戦隊の夜襲の後、敵艦隊と決戦して撃滅する作戦であったが、航空攻撃が早々に潰えてしまったため、為すところなく帰投するほかなかった。

 

謎の反転、そして勝機は去った

 後に大和の沖縄海上特攻を率いることになる伊藤整一中将は、日米開戦直前から軍令部次長の要職にあった。マリアナ沖海戦での敗北後、当時、作戦部長だった中澤佑が伊藤を訪ねて「私は大東亜戦争について必勝を期し得る信念を失いました。私を第一線に配して最後の御奉公をする機会を与えて欲しい」と申し出た折に、伊藤は沈思黙考の後、「私も同様に考える」と口を開いたという。

 続いて、米軍のフィリピン侵攻の意図を挫くために、レイテ沖海戦が行なわれる(昭和19年10月)。航空兵力を喪失した連合艦隊は、空母を囮にして米機動部隊を北方に釣り上げている隙に、戦艦を中心にした艦隊を米軍が上陸作戦を展開しているレイテ湾に突入させ、米上陸部隊を一気に屠らんとした。

 史上最大数の艦船が参加した複雑でトリッキーな作戦であったが、米機動部隊は囮に釣られ、レイテ湾突入の好機が生まれた。だが、ここで大和はじめ主力艦隊を率いる栗田健男中将は、レイテ湾を目前にしながら「謎の反転」を行なってしまう。かくて勝機は去った。連合艦隊は戦艦武蔵をはじめ戦艦3、空母4、巡洋艦9、駆逐艦9を失い、残存艦の多くも傷ついた。航空攻撃で損傷を受けた大和も呉に帰還し、修理を施されることになった。

 この時、日本海軍にはまだ戦艦5、空母6をはじめ、60隻ほどの艦艇が残されている。だが重油が払底していた。もはや全艦艇を修理し、艦隊を全力で出動させる余力はない。それどころか大型艦を動かすにも燃料に事欠く状況に追い込まれていた。連合艦隊の栄光は、失われつつあったのである。

 伊藤整一が第二艦隊司令長官に任じられたのは、正にそんな折、昭和19年12月23日のことであった。大和が率いる艦隊とわずかな燃料で、いかに戦うが――伊藤はこの難題に直面することになる。

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