2017年07月18日 公開
2022年07月05日 更新
元治元年7月19日(1864年8月20日)、禁門の変(蛤御門の変)が起こりました。長州藩勢が京都御所に押し寄せ、幕府方と激突し、敗退した事件として知られます。 長州のこの挙兵は暴発に近く、理性だけでは対処できない、時代の狂気とうねりのようなものを感じます。
前年の八月十八日の政変で、会津藩と薩摩藩によって京都政界から締め出された長州藩と三条実美ら七卿は、憤懣を募らせるとともに、政界復帰を狙っていました。折しも関東では水戸藩の尊王攘夷派「天狗党」が、横浜鎖港を求めて挙兵。上方においても、尊王攘夷を唱える過激浪士たちが京都に続々と入り、長州藩の復権のために活動を活発化させます。
そんな中で、充満したガスに点火するような役割となったのが、新選組による池田屋事件でした。三条の旅籠で会合中を新選組に踏み込まれた長州藩士や浪士らは、闘死するか捕縛されます。この知らせに長州藩の来島又兵衛らが憤激し、京都に攻め上って君側の奸を排除すべきと唱えました。 周布政之助や高杉晋作らは宥めようとしますが、藩内の急進派に他藩の浪士らも加わり、3人の家老を先頭に暴発、山崎、嵯峨、伏見に陣を敷きます。
これに対し、御所の孝明天皇は一貫して京都守護職・松平容保を支持する姿勢をとり、幕府に対して、長州勢を排除することを命じました。それでもなお、長州勢は収まらず、7月18日夜半、3方向から御所に向けて進撃を開始します。君側の奸を除き、藩主の冤罪を朝廷に訴えることを名目としていました。
伏見から進発した長州勢は大垣藩兵に迎撃されて敗走。しかし、本命は嵯峨から進発した家老の国司信濃と来島又兵衛率いる軍勢でした。彼らは御所まで攻め寄せ、中立売御門と蛤御門へ突き進みます。中立売御門は福岡藩兵が守っていましたが、国司隊がこれを破って蛤御門方向に進みます。 一方、蛤御門は会津藩兵が守り、来島又兵衛隊と激突しました。来島らは砲撃によって会津藩兵を苦境に立たせますが、薩摩藩兵の来援によって形勢は逆転し、来島は銃弾を受けて討死。国司隊も敗走するに至ります。さらに、堺町御門近くの鷹司邸に拠っていた久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎ら松下村塾出身者たちは、討死もしくは自刃を遂げます。
また鷹司邸から脱出することを得た、久留米の真木和泉ら諸藩の浪士隊も、翌日、天王山において自刃に追い込まれ、禁門の変は一応の終息を見ました。 しかし長州勢が落ち延びる際に長州屋敷に放った火と、中立売御門付近の屋敷を幕府方が探索中に生じた火災が延焼し、「どんどん焼け」といわれる京都市中を焼失させるほどの大火となってしまいます。京都市内には、その時の火で焼け焦げた跡の残る石灯籠があるそうです。
この禁門の変によって長州藩は御所に発砲したことから「朝敵」と見做されることになり、幕府軍による長州征伐、四カ国連合艦隊との下関戦争と踏んだり蹴ったりの目に遭いますが、高杉晋作が功山寺挙兵で藩の実権を奪い返し、動乱は新たな局面を迎えることになります。
禁門の変については、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らはいずれも反対であったといいますが、ついに急進派たちの暴発を抑えることはできませんでした。 時代が動く時、何か理性を超えた「狂気」めいた力が働くことも事実なのかもしれません。
翌20日、一つの悲劇が起こりました。六角獄舎における政治犯33人の斬殺です。六角獄舎は現在の京都市中京区六角通大宮西入ルにあった牢屋敷で、三条新地牢屋敷とも呼ばれました。二条城の南、二条城と壬生の中間あたりに位置します。安政の大獄の折には、幕府に批判的、あるには過激な尊王攘夷主義者と見做された者たちが捕縛され、牢しました。
禁門の変が起きた時、六角獄舎には多くの志士たちが牢に入っていました。筑前出身で生野の変を起こした平野次郎国臣、大和挙兵に関わった水郡善之助、池田屋事件のきっかけとなった古高俊太郎、足利木像梟首事件の長尾郁三郎ら33人です。禁門の変は御所に押し寄せた長州勢の敗北に終わりますが、この時、騒乱の中で家屋が炎上、火はたちまち燃え広がり、大火となりました。そしてこの大火が牢に迫ると、京都西町奉行の滝川播磨守具挙は、牢獄の志士たちが長州勢と合流することを恐れて、未決囚であったにもかかわらず、全員を斬罪に処しました。しかし、火は結局、牢獄を焼くことはなく、平野らはあたら命を奪われる結果となります。
さすがにこの暴挙には、後で知った京都守護職・松平容保も怒り、滝川を叱責しました。ちなみにその直後、滝川は大目付に転じ、慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いの折には、開戦を告げる砲撃を受けて敗走、旧幕府軍の士気を大いに下げることになります。
江戸の明暦の大火の折には、石出帯刀が囚人たちを解き放って命を救い、囚人たちもその恩を忘れずに、全員が集合場所に戻ってきたという話がよく知られますが、政治犯とはいえ、禁門の変の混乱の中のあまりにも対照的な結末でした。なお、この時、志士たちを処刑したのは新選組であったという説がありますが、当日の新選組は真木和泉らが籠もる山崎天王山に向かっています。そもそも、京都守護職配下の新選組が、奉行所の処断に手を貸すことも考えにくく、またそうであれば、松平容保が滝川を叱責したこともおかしなことになってしまいます。残虐なことはすべて新選組の仕業としていたかつての風潮が、こうした説となって現在も流布しているのではないでしょうか。
更新:11月23日 00:05