2017年06月04日 公開
2019年05月29日 更新
元治元年年6月5日(1864年7月8日)、池田屋事件が起こりました。京都三条小橋たもとの旅籠池田屋に集まっていた尊攘派過激浪士を、探索中の新選組が捕縛した事件として知られます。今回は、菊地明著『新選組 謎とき88話』(PHP研究所刊)の記述をもとに、池田屋には何人が集まっていたのかを紹介してみましょう。
元治元年6月5日朝、新選組は反幕派の枡屋喜右衛門こと古高俊太郎を捕らえました。これを知った長州の桂小五郎らは藩邸で善後策を講じ、新選組屯所を襲って古高を奪還すべしという強硬策も出る中、慎重論に落ち着きます。 そして方針を藩邸外にいる長州藩士吉田稔麿や肥後の宮部鼎蔵に伝え、彼らは他の潜伏中の浪士に知らせて、強硬論者を説得するための会合の場所としたのが、長州藩の定宿である池田屋でした。
夜五ツ時。桂小五郎が池田屋に出向くとまだ誰もおらず、出直すつもりで桂は対馬藩の別邸に赴き、このために彼は難を逃れることになります。 一方同時刻、会津藩から集合を命じられた新選組は、八坂神社前の祇園会所に集まりました。その数、32名前後。新選組は古高の「風の強い日に御所に火を放ち、混乱に乗じて孝明天皇を長州へとお遷し申し上げるとともに、中川宮を幽閉し、一橋慶喜と会津藩主・松平容保を暗殺する」という自白から、強い危機感を抱いていました。しかし、浪士たちの集合場所は知りません。やむなくしらみつぶしを行なうべく、局長の近藤勇は隊を3つに分けます。1隊は近藤自らが率い、残る2隊は副長の土方歳三と副長助勤の井上源三郎(異説あり)がそれぞれ率いて、土方が2隊を統括するというものです。
3隊に分かれて御用改めを行なう新選組のうち、亥の刻(22時頃)に池田屋を改めたのは、最も数の少ない近藤隊でした。その数、10人。 メンバーは近藤、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、武田観柳斎、谷万太郎、浅野藤太郎、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門。 屋内で浪士たちが会合していることを知った近藤は、表口、裏口をそれぞれ3人ずつに固めさせ、自らは僅か3人とともに池田屋に踏み込みました。近藤、沖田、永倉、藤堂。いずれも一騎当千の剣士です。
ではこの時、屋内に浪士たちは何人いたのか。 『池田屋事変殉難烈士伝』によると、事件の殉難者は20人とされています。しかし、その中には池田屋以外での残党狩りや、捕縛後に死亡した者も含まれ、全員が会合に参加して斬られたものではありません。一方、事件後に近藤が書いた手紙には「打ち取り七人、手疵負わせ候者四人、召し取り二十三人」とあります。 しかしこれも、夜を徹して行なわれた池田屋周辺での戦闘と、残党狩りの数字を合わせたもので、池田屋にいた人数を示すものではないのです。
池田屋で負傷しながらも長州藩邸へと脱出し、その後、傷がもとで死んだ野老山吾吉郎という土佐藩足軽がいます。彼の手紙「子六月京師書翰」には次のように記されています。
「吉五(吾吉郎のこと)儀、初め(石川)潤次郎、(藤崎)八郎に伴い御門出で、途中にて一度は相分かれ諸所徘徊致し、夜分当邸(長州藩邸)御門前にて潤次郎に再会、池田屋へ参る。望月亀弥太〈ほかに脱走人一両名おりあう〉、長(州)藩松村某を初めとし、長(州)藩、水府(水戸)人ならびに町人体二人、都合十一人ばかり相集まり、二階奥の間にて密談…」
つまりこれによると、全員で11人、もしくは野老山と同行者計3人を加えて14人がその場にいたという計算になります。
また明治に入ってから、池田屋の主人・惣兵衛の息子・重三郎が京都府に提出した書類によると、先着した吉田稔麿が酒肴を命じたり、書面を送るため使いの者を頼んだりしているうちに、13、4名が集まったとあり、吉田を含めて14~15人となります。 おそらく野老山の手紙とも一致する14~15人が妥当なところなのかもしれません。そのメンバーを特定することは困難ですが、菊地氏は確実なところで、長州の吉田稔麿、肥後の宮部鼎蔵、宮部春蔵、松村十郎、土佐の石川潤次郎、藤崎八郎、野老山吾吉郎、望月亀弥太、久留米の淵上郁太郎、大和の大沢逸平ではないかとされます。
池田屋で死んだと思われていた人物に土佐の北添佶摩、肥後の松田重助、長州の杉山松助らがいますが、北添は自刃、松田は重傷を負って捕縛、杉山は長州藩邸に脱出したものの傷がもとで死んでいます。彼らも池田屋の会合にいた可能性はありますが、今のところ確証はありません。なお新選組側は奥沢栄助が即死、安藤早太郎と新田革左衛門が重傷を負って、後日、死亡。
調べ尽くされていると思われがちな池田屋事件も、意外にまだ不明な点も多いようです。
更新:12月12日 00:05