2017年05月24日 公開
2019年04月24日 更新
建武3年5月25日(1336年7月4日)、湊川の合戦で楠木正成が討死しました。名将の悲劇的な死として知られます。
同年1月、後醍醐天皇に叛旗を翻し、入京を目指す足利尊氏軍を、楠木正成は新田義貞、北畠顕家と連繋して摂津の豊島河原の戦いで破り、尊氏を九州に追い落としました。しかし尊氏はこれ屈せず、九州で勢力を回復します。 一方、正成は後醍醐天皇に対し、足利方と和睦することを進言します。この頃、正成はすでに、社会の混乱の大本は後醍醐天皇の建武の新政にあり、公家政権では実力をつけた武士を統制することは不可能であること、その点で多くの武士の輿望を集めているのが足利尊氏であることを理解していました。
しかし、正成の進言が顧みられることはなく、朝廷は新田義貞に播磨の足利方・赤松円心追討を命じ、新田がこれに手間取っている間に、九州・四国の勢力を傘下におさめた尊氏の大軍が、東に向かって船団で進軍を始めます。 足利方との和睦を進言したことで、朝廷の反感を買ってしまった正成ですが、次善の策として、守備に向かない京都から朝廷を一時比叡山へ動座し、足利軍を京都に引き入れた上で兵糧攻めにして、包囲殲滅するという戦術を進言しますが、これもまた却下されました。そして後醍醐天皇より、新田軍の援軍として兵庫で戦うことを命じられます。
正成は勝算が無いことを承知の上で、戦場に赴く決意を固めました。その数、およそ700騎。そして途中の桜井の駅で嫡男の正行を呼び、故郷の河内に帰るよう命じます。同行を願う11歳の正行に正成は、「わしとお前がともに討死してしまったら、この後、誰が帝をお守りするのだ。今は身命を惜しみ、忠義の心を重んじ、一族郎党を養いまとめて、いずれ必ず朝敵を滅ぼすのだぞ」と言い含めました。
その頃、新田義貞は足利の大軍の接近に、赤松攻めを中止して後退したところ、逆に赤松勢の追撃を受けて損害を出し、兵庫で態勢を整えようとしていました。そして二本松と和田岬に陣を敷きます。その数およそ1万。戦場に到着した正成は、湊川の西、新田本陣の北西に陣を構えました。しかし、数で大いに勝り、しかも水軍によって自由に上陸できる足利軍に戦いの主導権はあります。やがて足利方の少弐勢が新田軍を側面から襲い、一方、楠木軍の背後を斯波勢が襲います。さらに細川勢が戦場より東の生田付近に上陸し始めると、退路を断たれることを怖れた新田義貞が後退。これによって楠木軍は、敵勢の中に孤立することになりました。
こうなってはいかに名将・正成をもってしても多勢に無勢。一時は敵の大将・足利直義に迫る奮戦を続けるものの力及ばず、ついに73騎となると、死に場所を求めて、湊川付近の民家に入りました。そして弟の楠木正季と刺し違えて自刃します。一説に享年43。
正成兄弟をはじめ、楠木一族を祀る湊川神社には、徳川光圀自筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑が建ちます。
更新:11月24日 00:05