2016年07月26日 公開
2022年06月20日 更新
しかし、戦局は好転しません。敵機編隊が近づくと、一式戦闘機隼と海軍の零戦が迎撃に上がりましたが、悲しいかな、雀と鷹の戦い。敵機に撃ち落とされる機、地上で破壊される機、そして戦死するパイロット……。惨状を前に、私はただただ悔しさをかみ殺すしかありませんでした。
12月某日、市丸利之助海軍少将が御訓示をなされる機会がありました。「戦局はまさに重大である。皆心を一つにして各々の持ち場で奮闘せよ。しっかり頼むぞ」という意味の切々たる思いが込められていました。
しかし、年末には使用可能な戦闘機は一機も残っていませんでした。ここに至り、私たちは年明け早々、本土から迎えに来る重爆撃機で硫黄島を去ることになったのです。
ちなみに、私は空襲の際、お腹に巻いていた母からの千人針の布のお蔭で、重傷にならずに済んだことがありました。母は残念ながら本土空襲で命を落としましたが、母の心配りが遠く離れた私を守ってくれたのです。
母からの千人針を手にする西氏
1月8日早朝、私が栗林忠道陸軍中将とお会いしたのは、重爆が迎えにくるその日でした。中将は、「ご苦労様でした。皆さんの御健闘は、各方面から感謝されております」と丁寧に礼を述べられました。司令官自ら、私のような末端の兵士にこのように優しい言葉をかけて下さることに、ただただ恐縮するとともに、何の役にも立てなかった恥ずかしさがこみ上げてきました。
また、中将は1人の兵が首にかけていた遺骨に目をやると、「この兵は、どうして亡くなったのですか」と聞かれ、まるで我が子を労わるようにしばし、遺骨を抱かれました。こんな上官のもとならば、死んでも悔いはない──その時に抱いた、率直な思いです。
やがて、迎えのトラックが来たので、これに乗り込みました。周りには、大勢の陸兵が見送りに来てくれています。僅かな期間でしたが、これほどに親密な「戦友」との出会いは他に経験したことがありません。
1人として、「自分も本土に帰りたい」と口にすることはおろか、表情にも出しませんでした。あの彼らの神々しいまでに美しい笑顔は、何時(いつ)までも忘れることができません。
私が島を離れた1カ月後、硫黄島に米軍が上陸し、厳しく、悲しい結末が将兵に待ち受けていました。私は今も、あの戦いで散華した戦友に、自分が生き延びたことへのお詫びと、感謝の思いで過ごしています。こうして、当時の体験を後世に伝えることで、少しでも御霊の慰めになればと思わずにはいられません。
更新:11月22日 00:05