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今も忘れられない、硫黄島の戦友たちの笑顔

2016年07月26日 公開
2022年06月20日 更新

西進次郎(元日本陸軍・硫黄島守備隊)

 

硫黄島

写真:栗林快枝氏蔵、撮影:佐々木悦久

 

──自分はいずれ、この島で命を落とす。
昭和19年(1944)11月末、硫黄島に赴いた西氏は、島の惨状を見て悲壮な覚悟を固めた。ところが…。意外にも島を守る兵たちは笑顔で、潑剌(はつらつ)と任務に就いている。祖国のため家族のため、誰もが己の為すべきことを為そうとしていた。

 

「こんなちっぽけな島が、日本の命運を…」

 忘れもしない、昭和19年(1944)11月27日のことです。当時、私は千葉の陸軍飛行第二十三戦隊で、戦闘機の武装・整備を担当していました。この日、

 「硫黄島救援のため、出動せよ」

 との命令が我が部隊に下されたのです。飛行第二十三戦隊の主たる任務は帝都防衛。すべての航空機が行くわけにもいかず、私の小隊だけが出動することとなりました。

 硫黄島がすでに厳しい状況に置かれていることは、新聞やラジオで広く知られていました。戦争の最前線に赴くわけですから、決死の覚悟で行かねばなりません。

 私は元来、気の小さい臆病者です。しかしこの時は喜び勇んで飛び立つ思いで、むしろ出立の日を待ち焦がれておりました。私に限らず、多くの将兵が抱いていた気持ちだったと思います。

 

 出立前日、僅かな時間を利用して東京の姉夫婦の家を「別れの挨拶」のために訪れました。姉は私が硫黄島に行くと聞き、終始、泣いていました。戦場に赴く者が勇み、見送る者が涙を流す。私としては、そんな姉の姿を前に「よし、頑張らなくちゃいけない」と決意を新たにしたものです。

 また、出立前には故郷・鹿児島の母から千人針の布が送られました。こうした家族の想いを胸にしまい、私たちはあの激戦の島へと向かったのです。

 11月30日、東京の立川航空廠に隣接する飛行場で重爆撃機に乗り込みました。飛び立ってしばらくすると、後部座席の航法士が私の肩を叩いて「あれが硫黄島だ」と教えてくれました。

 ──こんなちっぽけな島が、日本の命運を握っているのか……。

 私は、開いた口が塞がりませんでした。

 

島で出会った意外な光景

 島に降り立ち、まず驚いたのが艦砲射撃や空襲で島中が穴だらけだったことです。飛行場には破壊された航空機の残骸が爆弾の穴に無造作に投げ込まれており、稼働可能な航空機は戦闘機4機のみ。飛行場のテントは、所々が破れています。

 ──自分はいずれ、この島で命を落とす。私はこの時、改めて覚悟を固めました。同時に頭に浮かんだのが、「玉砕」という言葉。あの悲壮感は、言葉にできません。

 

 ところが、私が赴任した元山飛行場で、意外な光景に出会いました。海軍の兵士や下士官が到着を待ち受けていたのですが、彼らは実に明るく、誰もが笑顔を浮かべていたのです。

 何とも潑剌とした、顔、顔、顔……。その表情は悲壮感など微塵もなく、皆が落ち着いていました。祖国のため、内地に置いてきた家族のために、為すべきことを為す。彼らはその一心で、己の任務に向き合っていたのでしょう。そして、その笑顔に触れて、私は生き返った気持になったものです。

 「もうすぐ、定期便が来ますよ」

 硫黄島に到着したその日、1人の水兵にそう言われました。我々は陸軍ですが、海軍側と協同作戦をとることになったために、打ち合わせていた時でした。

 聞けば、1日に4回ほど空襲に来る米軍機を「定期便」と呼んでいるとのことで、しばらくするとB‐29編隊の接近をレーダーがキャッチしました。私たちは、飛行場の滑走路すぐ横のトンネル状の壕に避難しました。

 「爆弾投下!」の声があがると、夕立のような風を切るような音がして、耳を塞いでいても鼓膜が破れんばかりの爆発音が轟きました。硫黄島ではこれが日常でしたが、それでも「この島は大丈夫だ」と誰もが活き活きとしていました。

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