2016年06月26日 公開
2023年03月09日 更新
秀吉と親密な間柄であった利休がなぜ切腹したのか。その理由については、古来、さまざまな説が存在します。たとえば…。
●秀吉が利休の娘を差し出すよう要求し、利休が拒否した
●利休と秀吉の芸術的思想の対立があった
●利休が堺の権益を守ろうとしたため、交易を支配下に置こうとする秀吉に疎まれた
●安価の茶器類を高額で売り、私腹を肥やしたとの疑いを持たれた
●秀吉の唐入り(朝鮮出兵)に反対した
この他、ドラマで描かれた大徳寺の山門に利休像を置き、山門下を秀吉がくぐる際、頭を踏みつけようとしたというものもありますが、これはもちろん主因ではなく、利休を貶めるための「こじつけ」であったでしょう。
さて、豊臣秀次が没して、およそ50日後の2月13日(間に閏1月を挟んでいます)、利休は突然、蟄居〈ちっきょ〉を命じられ、さらに2週間後の2月28日、利休は京都葭屋町の自邸で切腹します。
秀長が死んでからほどなくの、突然の利休の切腹は、やはり秀長の死と無関係とはいえないでしょう。石田三成ら奉行衆の何らかの動きがあったと見るべきです。
たとえば利休の木像が大徳寺山門に置かれていることを暴露したのは、当時、京都奉行の前田玄以でした。玄以は三成ら奉行衆に連なる人物です。
また、吉田兼見の日記『兼見卿記』には、利休の死後、利休の妻を石田三成が蛇責めにかけたという噂があったことを記しています。もちろんこれは根も葉もない噂で、利休の妻は後年まで健在でした。しかし、そうした噂が流れる背景には、利休の死に(秀吉の命令であるにせよ)三成らがからんでいるのでは、という見方があったということはいえるでしょう。
ただし、ドラマで描かれたように、利休の死が奉行衆の独断で行なわれたというのは、考えにくいでしょう。ドラマでは秀吉が認めたのは蟄居まででしたが、実際は、秀吉が最終的な命令を下していたはずです。でなければ奉行衆は、厳罰に処されていても不思議ではないからです。
秀吉と利休の間にかねてより何らかの亀裂が入っていて、それでも秀長が存命中は表面化しなかったものが、秀長の死後、奉行衆が巧みにそれを煽って秀吉を激昂させ、利休に死を命じさせた……そんな流れではなかったでしょうか。
天正19年(1591)2月28日、利休邸に切腹命令を告げる使者が訪れると、利休はまったく動じることなく、口を開きました。「茶室にて茶の支度が出来ております」。利休は使者に最後の茶をたてた後、一呼吸ついて従容と切腹しました。享年69。さすがは千利休、やはり、ただ者ではないという印象を受けます(辰)
更新:11月22日 00:05