2016年06月19日 公開
2023年03月09日 更新
天正17年(1589)12月、豊臣秀吉は北条征伐の動員令を下し、翌天正18年(1590)2月より、各地の大名は北条領に向けて進撃を始めます。
この時、真田昌幸は息子信幸とともに、徳川家康の与力ではあったものの家康の指揮下から離れ、前田利家、上杉景勝を中核とする北国軍に加わりました。信州から上州にかけて、土地鑑のあることが理由の一つでしょう。
3月初旬に信州で集結した北国軍は、3万5,000。これに対し、北条氏は、碓氷峠の要所・磐根石〈いわねいし〉に与良与左衛門〈よらよざえもん〉らを配備し、進攻を阻止しようと図ります。
真田父子は北国軍の先鋒として碓氷峠に進み、3月15日、信幸が碓氷峠と大道寺政繁の拠る松井田城方面を探りに出ました。すると物見に出た与良勢と遭遇し、激戦となります。信幸勢は少数でしたが奮戦、与良与左衛門を討ち果たしました。
その後、真田勢は磐根石で大道寺政繁軍と激突、この時の様子を『長国寺殿御事蹟稿』は次のように記します。「其ノ後、磐根石ト云フ切所ニテ迫メ合ヒアリ。時ニ源次郎信繁、自身ニ働キ、手ヲ砕キテ高名アリ、敵ヲ追ヒ崩サル」。
なんと真田信繁の活躍を伝えているのです。ドラマでは信繁は秀吉の側近くにあり、だからこそ小田原城内に潜入して、北条氏政を説得する場面も描かれるわけですが、実際は昌幸、信幸とともに北国軍に加わり、手柄を立てていた可能性があるのです。しかも、これが信繁の初陣であったともいわれます。
碓氷峠を突破した真田勢は松井田城下へと攻め寄せました。北国軍本隊もこれに続きますが、松井田城は堅城であり、簡単に落ちる城ではありません。北国軍は松井田城の支城をことごとく落とすとともに、水の手を断って、4月20日に降伏開城させます。
その後、真田父子は無血開城した上野国箕輪城の仕置を行ない、さらに武州鉢形城、武州八王子寺の攻略に加わりました。また、石田三成が攻めあぐねる忍城に、真田父子は浅野長吉(長政)らとともに援軍に駆けつけ、開城までを見届けたともいわれます。
真田信繁には忍城攻めの際、忍城の甲斐姫と干戈を交えたという伝承もあります。その真偽はともかく、この小田原攻めの時だけは秀吉が信繁の馬廻の任務を解いて、父や兄たちとともに戦うチャンスを与えたというのは、秀吉ならば大いにあり得そうな気もします。
更新:11月22日 00:05