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真田父子の北条攻めと石田三成の奥州仕置

2016年06月19日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

 

三成の知られざる功績「奥州仕置」

 

忍城攻めの失敗で、石田三成にとっての小田原攻めはマイナスイメージで語られがちですが、大きな流れで見ていくと、忍城攻めはさほど大きな問題ではなかったかもしれません。というのも、秀吉にとって小田原攻めは、関東・東北を一気に支配下に置くための巨大なイベントであったからです。

つまり、小田原攻めは北条を降伏させること自体より、むしろ関東・東北の諸大名を帰順させることにこそ、狙いがあったともいえるのです。それが「奥州仕置」と呼ばれるもので、三成はここで大きな功績を上げました。

7月11日の北条氏降伏後、秀吉は小田原から下野国宇都宮に向かい、26日、宇都宮城に入ります。ここに関東、東北の諸大名も集結し、統治のあり方が決められました。「奥州仕置」と呼ばれるものです。さらに秀吉は8月9日には会津に入りました。

奥州仕置で本領安堵された大名の一人に、佐竹義宣がいます。佐竹は天正11年(1583)頃から秀吉に接近していましたが、小田原攻めの際、初めて参陣し、拝謁しました。そこに至るまで、粘り強い交渉を重ねる「取次役」を務めたのが石田三成です。

秀吉の後ろ盾を得た佐竹は、秀吉公認のもと常陸国を統一することができました。佐竹にすれば取次役の三成は、秀吉に通じる大切な窓であり、以後も三成が奉行を務めて佐竹領の検地を行なうなど、親交を深めていくことになります。豊臣政権にとっても関東の雄・佐竹54万石を、三成を通じて指揮下に置くことは大きなメリットがありました。

また秀吉が宇都宮から会津に向かっている頃、三成は太平洋側の岩城氏領、相馬氏領の仕置を行なっています。仕置の具体的な内容は、検地・破城・刀狩りを行なって、大名を「豊臣大名」化し、農村の支配システムも石高制に改めるというものでした。

これによって岩城氏、相馬氏は豊臣政権の支配下に組み込まれ、それを導いた三成とも、昵懇の間柄となっていきます。そして三成は両氏に、ある役割を持たせました。すなわち、伊達政宗を監視・牽制するというものです。

政宗は今夜のドラマにも登場しましたが、やはり秀吉にすれば警戒を要する存在でした。だからこそ政宗から会津領などを召し上げ、そこに蒲生氏郷を入れるとともに、北の葛西・大崎領には木村吉清を入れ、南からは岩城氏、相馬氏が監視する、いわば政宗包囲体制を築く必要があったのです。

そして秀吉の意に沿って、岩城氏、相馬氏に政宗の監視・牽制の役割を与えた三成の仕事は、秀吉の奥州経営において極めて大きな意味がありました。佐竹、岩城、相馬を押さえた三成の「奥州仕置」の功績は、忍城攻め失敗を帳消しにしておつりがくるほどのものであったでしょう(辰)

 

 

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