2016年02月22日 公開
2023年01月12日 更新
折りも折り、徳川方からの勧誘の手は昌幸にも及んで来ていた。「何とぞ才覚をめぐらして、真田を引付け給え」(『三河物語』)と依頼された依田信蕃、それに昌幸の弟で北条から徳川に転仕していた信尹(昌春)、もうひとり前出の日置五左衛門尉がその交渉ルートだった。9月28日付けで昌幸の家康への寝返りが決定し、家康は「本領安堵のうえ上野国の箕輪と甲斐国内で計2千貫文の土地、さらに信濃諏訪郡を与える」と宛行状を発給した。徳川方からは五左衛門尉に「真田房州(真田安房守昌幸)一味の儀、その方才覚をもって落着」と書き送り、慎重居士の家康も「誠にもって祝着」「快悦」と喜びを爆発させている。今や昌幸の存在は、信濃支配のキーマンとして唯一無二のものとなったのだ。
だが、家康からの宛行状は切り取りの権利を与えるというものに過ぎない。これを現実にするには、昌幸自身が土地を攻め取らなければならないのだ。彼は早速行動を開始する。
依田信蕃とともに甲斐の北条軍の背後をおびやかし、その補給ルートを寸断するとともに、箕輪攻略の準備をすすめ、また足もとでは北条方の祢津昌綱が守る小県祢津城を攻めた。このとき城を守りきった昌綱に対し、氏直は海野で4千貫文の土地を与える、と約束している。いかに昌幸の離反が北条氏にとって痛手だったか、この大盤振舞ぶりでわかるだろう。結局、氏直は甲斐・信濃における家康の優先権を認め、上野の切り取りの権利を得ることで10月末に徳川方と講和を結ぶ。ここに「天正壬午の乱」は幕を閉じたが、昌幸の戦いはこれで終わったわけではない。
天正11年(1583)3月、昌幸は小県の西の入り口にあたる虚空蔵山さん城の上杉勢を攻め、翌月甲斐の甲府に在陣中の家康に出仕した。徳川方の史料『当代記 』には「このとき信濃の支配体制をしっかりと定めておけば平定もスムーズに進んだだろうに、何も置き目を定めず放置したために翌年羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)との間で戦いが起こると真田や小笠原らが離反してしまった」とあるが、上杉氏の防波堤となっている昌幸に首輪をつけるわけにも行かない。実は3月の虚空蔵山城攻撃も、外部の敵の存在をアピールして自分の価値を高めるためのものだったとも深読みできるのだ。
家康のもとに出仕した昌幸は、対上杉防衛の重要さを訴えたと思われる。その結果はすぐに具体的な行動となった。上田築城がはじまったのだ。4月13日、昌幸の上田築城を知った上杉景勝は、「真田、海士淵(あまがふち)取り立つるの由に候条、追い払うべき」と阻止命令を下す。
海士淵(尼ケ淵)というのは、上田城の直下を流れる千曲川の河畔の名だが、そこに大量の兵を集められる城を築くことこそ肝要、と昌幸は家康を説得し築城許可を得たのだろう。
この頃景勝は、家康が虚空蔵山城に軍勢を派遣して攻撃させるという情報にも接しているが、その徳川軍を収容し攻撃拠点となりうる規模の城を築く必要がある、と昌幸が主張した可能性は高い。『真武内伝』(真田家の編纂史料)に「(家康から)上田の城を給う」とあるのは、そのあたりの事情を反映しているのだろう。あるいは、その修築費用も家康のふところから出されたかもしれない。
当初の上田城は東に大手を向け単純な方形の本丸を一重の堀で囲み、その周囲は河川や沼を自然の外堀とした単純なものだった(『天正年間上田古城図』)が、それでも大軍の集結にはじゅうぶんな広さを持ち、とりあえず翌年には粗々完成したという。
北条との手切れ後、昌幸は沼田城に入っていた北条勢を追い払って城を取り戻していたが、6月7日、矢沢頼綱を沼田城守備につかせる。真田氏は徳川傘下で上田と沼田、ふたつの大城を東西に持つ大勢力となった。だがこのあと昌幸は上杉景勝に寝返ることになる。
その原因は、家康にあった。北条氏直との講和の際に「上野の領有権は北条方に」と取り決められたことは既に述べたが、天正12年(1584)3月になって家康は羽柴秀吉と交戦状態(小牧長久手の戦い)に入る。その後も冷戦状態が続くなか、西に大兵力を待機させなければならない家康は、北条側から条件の履行をせまられ、沼田城の引き渡しを求められると拒否することはできなかった。
家康は昌幸に沼田割譲を内々に打診したものの、拒否されたのだろう。6月、家康は室賀義澄(正武)という者に昌幸謀殺を命じる。「はかりごとを以て真田を討つべし」(『加沢記 』)。
義澄は上田近くの国人領主で、かつて昌幸に敵対したあと随身した人物だったが、これを知った昌幸は逆に義澄をだまし上田城に招いて暗殺する。「近いうちに家康とは手切れとなるだろう」。先を読んだ昌幸は、上杉景勝と羽柴秀吉にひそかに接近していくのだ。
天正13年(1585)4月、昌幸は家康からの正式の使者に対し、「沼田は徳川や北条からいただいた領地ではない。自分の武功によって得たものを、北条に渡せるものか!」と大見得を切ってみせた(『上田軍記』)。言うまでもなくその背景には上杉という「保障」がある。徳川と決裂した昌幸は正式に上杉への帰順を申し入れ、7月15日に寝返りが決定する。景勝は昌幸に対し小県・沼田・吾妻への援軍派遣を保証し、大幅な加増も約束していた。昌幸側からは次男の弁丸(のち信繁、一般に幸村)が人質に出され、閏8月2日第1次上田合戦が始まる。
戦後の11月、羽柴秀吉は昌幸に「家康との紛争についてはこちらで直接裁定する。今回は許すから、早々上洛せよ」との朱印状を発した。これは直前に始まった九州征伐で秀吉が大義名分とした「惣無事令」を適用し、家康と昌幸の戦いを「私戦」と断じたもので、これによって昌幸は家康と停戦、秀吉政権から豊臣大名として公認されたことを意味する。
12月、昌幸は地元の信綱寺に旧主・武田信玄の菩提所を建立すると宣言したが、これは信玄の薫陶によって得られた智恵と経験で大乱を生き抜いたことへの感謝とともに、過去と決別して新たな道を歩む決意を示すものでもあったのではないだろうか。
橋場日月(作家)
昭和37年(1962)、大阪府生まれ。日本の戦国時代を中心に歴史研究・執筆を行なう。著書に『真田三代―幸村と智謀の一族』『新説 桶狭間合戦―知られざる織田・今川七〇年戦争の実相』など。
更新:11月24日 00:05