2015年07月24日 公開
2023年02月22日 更新
夜戦といえば第3次ソロモン海戦の第一夜戦です。2日続けて夜戦が行なわれましたが、初日の夜戦は海戦史に残る激戦でした。
昭和17年11月中旬、日本海軍は海上からの艦砲射撃でガ島の飛行場を破壊すべく、戦艦比叡、霧島、軽巡洋艦長良、そして駆逐艦14隻から構成される挺身攻撃隊をガ島ルンガ泊地へと突入させました。同月12日午後11時30分、日本艦隊が目標地点に到達、飛行場砲撃を開始しようとしたまさにその時、前方に敵艦影を発見します。アメリカ海軍の支援部隊で、そのレーダーは日本艦隊を捉えていたのです。
かくして夜戦が始まり、史上稀に見る大混戦になりました。漆黒の闇の中、敵味方あわせて30隻ほどの艦艇が4、5km四方という近距離で砲撃、雷撃し合います。
比叡乗組員のある士官は、「艦橋最上部から真下にアメリカの駆逐艦を見た」と語っていました。そのくらい敵駆逐艦は肉薄しており、アメリカの歴史学者であるサミュエル・モリソンは自著で「バケツの中をかき回したような戦い」と表現しています。
もちろん、日本海軍はこのような乱戦は予想していませんでした。視界が利かない夜戦では、得てしてこうした不測の事態が起こります。結果、日本艦隊は戦艦比叡と駆逐艦夕立、暁、アメリカ艦隊は巡洋艦2隻と駆逐艦4隻を失いました。
戦艦を失う大損害を受け、日本艦隊は当初の目的であるガ島の飛行場攻撃を果たすことはできませんでした。
基本的な陣形は「単縦陣」「単横陣」「梯形陣」の3つです。隊列の組み方はそれぞれ名前の通りであり、単縦陣は縦一列、単横陣は横一列、梯形陣は斜めに列を組みます。
中世のヨーロッパでは、全艦艇で敵艦隊に斬り込んで接近戦を行なうのが定石であり、それに適した単横陣が基本でした。しかし大砲が主力となると、敵艦隊に一斉に砲撃できる単縦陣が主流となります。日本海軍も、伝統的に単縦陣を採用しました。単縦陣ならば後続艦は先頭の旗艦についていけばよく、統率が非常にとりやすいというメリットもありました。
実は、先に挙げた3つ以外にも鶴翼など様々な陣形が考えられたのですが、複雑な陣形は実戦で混乱を招くだけで、現実的ではありません。梯形陣にしても、単縦陣や単横陣よりも複雑なため敬遠されました。
明治27年(1894)の日清戦争の黄海海戦では、単縦陣を採用した日本海軍が単横陣の清国海軍を撃破しています。なお、単縦陣、単横陣ともに各艦の距離はおよそ400mでした。
太平洋戦争直前には、「輪形陣」という新たな陣形が生まれます。これは空母の登場にあわせて考えられた陣形で、空母を中心に据え、その周りを囲むように戦艦や巡洋艦など強力な艦艇を並べたものでした。こうして、空母の上空を弾幕で護るのです。空母の登場が、戦い方に大きな影響を与えたことが分かります。
真珠湾攻撃に参加した第一航空艦隊も、中心に空母6隻、周りに戦艦、巡洋艦、駆逐艦を配した布陣で真珠湾へと向かいました。
昭和16年(1941)12月8日、日本海軍は乾坤一擲の真珠湾攻撃を仕掛けました。参戦したのは南雲忠一司令長官率いる第一航空艦隊に、水雷戦隊、潜水艦部隊を加えた陣容で、この「南雲機動部隊」は間違いなく当時世界最強でした。主な参加艦艇は次の通りです。
第一航空艦隊
第一航空戦隊…空母赤城、加賀
第二航空戦隊…空母蒼龍、飛龍
第五航空戦隊…空母瑞鶴、翔鶴
第三戦隊…戦艦比叡、霧島
第八戦隊…重巡洋艦利根、筑摩
第一水雷戦隊…軽巡洋艦阿武隈、駆逐艦 谷風、浜風、浦風、磯風(以上、第十七駆逐隊)、霞、霧、陽炎、不知火、秋雲(以上、第十八駆逐隊)
第二潜水隊…潜水艦伊19、伊21、伊23
第一補給隊…油槽船極東丸、健洋丸、国洋丸、神国丸
第二補給隊…油槽船東邦丸、東栄丸、日本丸
ちなみに、開戦時の日本海軍が所有していた艦艇数を紹介すると、戦艦10隻、空母9隻、重巡洋艦18隻、軽巡洋艦20隻、駆逐艦120隻、潜水艦64隻でした。
ここでは、特筆すべき大海戦2つを簡単に紹介しましょう。
ひとつは昭和19年6月のマリアナ沖海戦。マリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で行なわれた、日本海軍空母機動部隊とアメリカ海軍空母機動部隊の決戦です。この戦いでは、日本の空母9隻のうち3隻が沈没、1隻が中破、3隻が小破という未曾有の損害を受けました。
もうひとつが、レイテ沖海戦です。これは、世界の海戦史における最後の艦隊決戦ともいうべき戦いです。残念ながら、2つの戦いとも日本海軍の完敗であり、その後も日本はアメリカの勢いに押され続け、昭和20年(1945)に終戦を迎えるのです。
更新:11月24日 00:05