2015年07月17日 公開
2023年02月22日 更新
駆逐艦島風
意外なことに、太平洋戦争時にはまだ、日露戦争当時の艦も健在でした。有名なのが信濃丸です。
当時、仮装巡洋艦だった信濃丸は、明治38年(1905)5月27日の朝にバルチック艦隊を発見、日本海海戦勝利に貢献したことで知られます。日露戦争終結後、徴用を解かれ、民間の企業に引き取られて、戦時中は輸送船として活躍、戦後は復員輸送に使われました。老朽化が激しく、兵士の間では「あのボロボロの船は何だ」「あれはあの信濃丸だ」などといった会話も交わされたといいます。
また、戦時中には先代の大和や赤城も存在していました。先代の大和は、明治20年(1887)に建造されて日清・日露両戦争に従軍。その後は海防艦や特務艦に類別され、昭和10年(1935)からは浦賀で少年刑務所練習船として使用されました。役目を終えたのは、昭和25年(1950)で、船齢は60を超えていました。
日本海軍の艦艇には様々な名前がついていますが、艦種ごとに基準があります。ここでは戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦を見ていきましょう。なお、それぞれ例外もあります。
【戦艦】昔の日本の国名。武蔵や伊勢、日向。
【巡洋戦艦】山の名前。榛名や鞍馬。
【航空母艦】鳥や龍に関係する名前。正規空母は龍や鶴がつく名前。飛龍や翔鶴(なお赤城は巡洋戦艦、加賀は戦艦を空母に変更)
【重巡洋艦】山の名前。妙高や愛宕。
【軽巡洋艦】川の名前。北上や阿武隈。
【一等駆逐艦】天象、気象、海洋などに関する名前。雪風、吹雪、磯波、朝霧。
【二等駆逐艦】草や木の名前。桜、竹、朝顔。
注目すべきは、戦艦の名前の付け方でしょう。
戦艦では、同型艦の2隻ずつを対の名前にしています。例えば、伊勢と日向は神話。陸奥と長門は本州の北と南。扶桑と山城は日本の総称と古代の首都(平安京)。そして大和と武蔵は古代と現代の首都。非常にバランスがよく、命名のセンスの良さが窺えます。
現在の海上自衛隊でも、艦の名前は乗組員の士気に関わるといいます。名前は非常に重要なのです。
『海軍軍備沿革』という海軍省が出した本に詳細が記されていますが、まずは戦艦大和を例にお話しましょう。
建造期間は、呉海軍工廠で起工したのが昭和12年(1937)11月4日、竣工は4年後の昭和16年(1941)12月16日でした。進水式は昭和15年(1940)11月1日ですから、水上に初めて浮かんだのは起工から3年後のことです。
建造費は、当時の金額で約1億4,000万円。太平洋戦争前の国家予算は約40億円だったといいますから、その3%に相当します。なお、現在の国家予算は85兆円ですから、比較してみても面白いでしょう。もちろん、建造は未曾有の大事業であり、総延べ作業人数は300万人以上に達しました。
一方、駆逐艦などは起工から竣工まで半年ほどで、建造費も陽炎型駆逐艦は当時の金額で1,000万円弱という記録が残ります。当然ながら、建造に要する時間もお金も、艦種によって大きく異なりました。
「艦攻」は艦上攻撃機、「艦爆」は艦上爆撃機のことです。ともに空母に搭載して運用されることを想定された航空機でした。
ただし艦攻と艦爆の違いについては、少し注意が必要です。本来、攻撃機は魚雷で敵艦艇を「雷撃」、爆撃機は目標物に急降下で爆弾を投下する「爆撃」を行なうことが前提です。
しかし例えば、九七式艦上攻撃機は爆撃もできますが、絶対に艦爆とはいいません。なぜなら艦攻は、急降下爆撃(目標に対して急降下して投弾)ができないからで、艦上爆撃機は、急降下爆撃ができることが条件なのです。このポイントを押さえておくと、海軍の航空機のカテゴリー分けが理解しやすくなるでしょう。
また、「艦戦」とは艦上戦闘機のことで、空母搭載を前提とした戦闘機のことです。敵戦闘機との空中戦や地上の目標への攻撃、 さらには艦隊や、艦攻、艦爆の護衛も重大な任務です。零式艦上戦闘機、通称「零戦」は皆さんもよくご存知でしょう。
海軍の将官を指す言葉で、陸軍の「将軍」にあたります。
将官とは大将・中将・少将の総称ですから、少将以上の階級の海軍士官のみが「提督」と呼ばれました。なお、英語では、提督は「admiral(アドミラル)」、将軍は「general(ジェネラル)」です。
10のポイントのうち、どれだけご存知でしたでしょうか? 初心者の方はもちろんのこと、豊富な知識のある方でも、改めて艦艇の奥深い魅力に触れることができたのではないでしょうか。
更新:11月24日 00:05