2015年07月17日 公開
2023年02月22日 更新
大正10年(1921)のワシントン海軍軍縮会議で、巡洋艦は「単艦基準排水量1万トン以下」「備砲は8インチ(20.3cm)以下」「ただし、総保有数は制限しない」と定義されました。
それが、昭和5年(1930)のロンドン会議において砲口径が6.1inch(155mm)~8inch以下の巡洋艦を「カテゴリーA」、同6.1inch以下を「カテゴリーB」と分類し、それぞれの保有数に制限が設けられたのです。
基準が変わった理由は、ワシントン条約の範囲内で妙高型や高尾型など優れた巡洋艦を生み出した日本海軍を列強が恐れ、押さえつけようと図ったためでした。
日本海軍は、カテゴリーのAとBをそれぞれ「一等」「二等」に類別し、これが「重巡洋艦」「軽巡洋艦」と呼ばれるようになりました。つまり、技術的な要素ではなく、非常に人工的なカテゴライズなのです。その証拠に、当初、軽巡洋艦だった最上型は20cmの主砲を積んで、事実上重巡洋艦になりました。運用方法は、重巡洋艦と軽巡洋艦に変わりはありません。
一方、駆逐艦は一等と二等に分かれていますが、これは1,000t以上を一等、1,000t未満を二等という基準でした。
日本海軍は「同型艦」や「姉妹艦」といって、同じ設計図で、同じ基本性能の艦を何隻も建造しました。
艦隊で行動する時、例えば1隻だけスピードの遅い艦がいたら統制のとれた動きはできません。そのため、戦隊、隊は同じ性能の艦で構成するのが基本でした。同型艦を何隻も造ったのは、そうした背景からです。
また、日本海軍の戦闘単位(指揮官が統率する部隊の単位)は、最低2隻から4隻でした。そのため、原則的に同じ型の艦は4の倍数を建造しました。有名な大和型戦艦は大和と武蔵の2隻が就役しましたが、計画上はやはり4隻です。
太平洋戦争を戦った戦艦は大和型以外では金剛型(金剛、比叡、榛名、霧島)、扶桑型(扶桑、山城)、伊勢型(伊勢、日向)、長門型(長戸、陸奥)の4タイプでした。一方の巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などは、多くのタイプがありました。
駆逐艦島風です。島風は公試(海上で行なう最終試験)で40.9nt(時速約75km)を記録し、日本海軍最速の艦となりました。もともと、外国艦艇の速力増大を受けて、40ntを目標値に建造された艦であり、見事に期待に応えたのです。
ただしこれは、最大速力の話です。艦隊で行動する時には16ntから18ntを艦隊速力(標準スピード)とし、燃費を抑えました。また、公試は戦闘直前を想定しているため、燃料や食糧、水は3分の2ほど積み、弾丸は満載で行なわれます。当然、これらの艦載量次第で速度は大きく変動しました。島風も常に40ntで航行していたわけではありません。
なお、戦艦は最大速力30nt程度を標準に建造されており、大和型もデータ上は最大27ntとなっていますが、レイテ沖海戦では、30nt近く出したという話も伝わります。
更新:11月22日 00:05