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浮世絵との関係は?美術史に与えた影響は?モネの魅力をひもとく

2026年09月30日 公開

安井裕雄(三菱一号館美術館上席学芸員)

「印象、日の出」1872年、パリ、マルモッタン=モネ美術館(提供︰Artothek/アフロ)
「印象、日の出」1872年、パリ、マルモッタン=モネ美術館(提供︰Artothek/アフロ)

そもそも、モネが活躍した時代の美術界はどのようなものであったか。モネの作品の特徴とは。そして、モネと日本美術との関係とは……。モネ研究の第一人者に話をうかがうと、モネの魅力が改めて見えてきた。

※本稿は、『歴史街道』2026年10月号から一部抜粋・編集したものです。

 

絵のテーマにヒエラルキーがあった

クロード・モネは、1840年にフランスのパリで生まれ、1845年頃、ノルマンディー地方の港町、ル・アーヴルへ移り住みました。

ここでモネは画家のウジェーヌ・ブーダンと出会い、彼の指導を受け、屋外で風景を描く魅力に目覚め、風景画家を志すようになります。

当時のフランスでは、サロン(官展)で入選することが、画家として認められる重要な条件でした。サロンの審査基準は、美術界で権威を誇っていた美術アカデミーのそれに倣っており、入選を目指すには、絵の主題が重要となります。当時は絵のテーマによって、ヒエラルキーがありました。

最上位は「歴史画」や「物語画」。これは、『聖書』やギリシャ・ローマ神話などを主題に描いたもので、人間の高邁なる思想、哲学、あるいは歴史を叙述するものです。

次に「肖像画」が位置し、そして「風俗画」、その下に「風景画」、「静物画」が続きます。

人文諸科学的理念の裏打ちを欠く風景画は、サロンで選ばれたとしても、いい場所に絵がかけられることは望めませんでした。

しかしながら、モネが画家としての道を歩み出した頃、フランス革命以前の、王族・貴族・教会などが絵の発注者となるシステムが完全に崩壊し、一方で、新興ブルジョワジーが登場し、風景画や静物画など、それまで「卑俗なテーマ」とされていたものが好まれる時代に変わりつつありました。

1859年、画家を目指しパリに出たモネは、画塾で学び、後に「印象派」のグループを形成する、ピエール=オーギュスト・ルノワールや、アルフレッド・シスレーと出会います。

「印象派」という言葉は、1874年、ジャーナリストのルイ・ルロワが美術批評の記事で使い、世に広まるきっかけとなりました。しかし伝統的な絵画と異なる表現を目指した印象派は、ルロワの批評時に突然、誕生したわけではありません。

伝統的な絵画と異なる表現という点では、印象派の前に「目に見えないものは描かない」と豪語したギュスターヴ・クールベのレアリスム(写実主義)が生まれています。

また、娼婦を思わせる女性を描いた「オランピア」でサロンを騒がせたエドゥアール・マネも、印象派に大きな影響を与えました。

こうした先人たちの理念と手法を受け継ぎ、それを発展させたのが印象派なのです。

 

「印象、日の出」

美術評論家のテオドール・デュレは、モネ、ルノワール、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレー、ベルト・モリゾの5人を、「印象派の風景画家」の典型と、1878年に批評しています。特にモネを「瞬間を描く能力がある」と評したのです。

油絵の具が乾くまでは1週間くらいかかりますから、「瞬間を描く」ことは現実的には不可能です。

しかしだからこそ、瞬間を描いたように見せる表現には革新性があります。1874年の第1回印象派展に出品した、故郷ル・アーヴルの港を描いた「印象、日の出」を手掛けたころのモネは、瞬間を描くことを突き詰めていました。

「印象、日の出」には、絵の具が乾かないうちに塗り重ねた部分があり、太陽のオレンジと、その下のグレーが混ざっているのがわかります。

「印象派」という言葉と強く結びついた「印象、日の出」ですが、この作品が描かれたのは、長らく1873年だとされてきました。

モネは1871年からパリ近郊のアルジャントゥイユに住んでいて、この時期にル・アーヴルを訪ねた記録はないのですが、作品総目録で1873年と判断されたことから、これが定説になりました。

しかし、「印象、日の出」を所蔵するマルモッタン=モネ美術館が発表から140周年記念として、天文学者、歴史家、修復家などのチームをつくり、港の船の出入りの記録、天候の記録、太陽の運行状況と位置を割り出すといった、包括的な研究を行なった結果、近年は1872年11月13日の7時25分から35分の間であると同定されています。

 

モネとジャポニスム

19世紀後半、ヨーロッパには、日本から多くの美術工芸品が流れ込んでいました。

ジャポニスム(日本趣味)がフランスで広がった理由は、万国博覧会という場を通じて日本の文物が紹介されたこと、そして、通商航海条約が結ばれて、日本の美術工芸品が輸入されたことのふたつがあると思います。

1867年にパリで開催された万国博覧会に徳川幕府と薩摩藩が出品したことは、よく知られています。また美術評論家のザカリー・アストリュックが、当時のパリで有名だった日本趣味の10人を挙げた中に、モネも含まれています。

モネの終の住処となったジヴェルニーのアトリエに、200点以上の浮世絵が残っていることからも、モネが日本に関心をもっていたことは確かです。

当時の美術評論家たちが「モネの作品にジャポニスムの影響がある」と書き、その後も現代にいたるまで、同様の指摘がなされます。しかしながら、モネの絵と関係する浮世絵を確認するのは、実はものすごく難しいのです。

モネはその性格上、ある物事を自分でしっかりと研究し、消化した後でないと、作品には取り入れておらず、「真似した」とわかる部分をほとんど残していません。

また、モネのジャポニスムということで、太鼓橋、藤、竹などがあるジヴェルニーの「水の庭」がよく取り上げられます。

太鼓橋は、歌川広重の「名所江戸百景亀戸天神境内」がよく比較されていますが、モネが亀戸天神境内の浮世絵を手に入れた時期が不明なことや、亀戸天神の藤を写した写真も存在しており、イメージソースは浮世絵だけに限らない可能性もあると思います。

 

水面から描いたもの

「睡蓮」1906年、シカゴ美術館(提供︰Alamy/アフロ) 「睡蓮」1906年、シカゴ美術館(提供︰Alamy/アフロ)

モネは1895年からジヴェルニーの「水の庭」を描き始め、これが「睡蓮」と呼ばれる連作になっていきます。

連作という方法に行き着いたときに、画面構成を単純に、限定することで初めて、時間や天候の変化を、光の変化を見比べる形で描けるようになりました。

1909年にモネは「睡蓮・水の風景連作展」を開き、1903年から1908年までに描きためた48点の「睡蓮」を出品。好評を博しました。

しかし、モネが亡くなった1926年前後にはすでに、彼の評価は低下していました。

1927年にオランジュリー美術館で、1914年以降に描かれた大型の「睡蓮」が公開されたときは、不評で、完全に失敗でした。

印象派の首領として、時代の最先端を走っていたはずのモネが、時代に取り残された画家になっていたのです。

ところが、このような状況は、1950年代に一変し、モネの作品は再び脚光を浴びます。

1949年にスイス・バーゼルで開催された展覧会で注目されたモネの壁画は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が購入したのを機に抽象表現主義と結びつけられるようになります。

しかしその後、抽象表現主義と関係なく、モネは新しい芸術として昇華され、近代美術館で展示され続けます。

近代美術館は、モダニズムの歴史をいくどとなく書き直し、それに合わせて展示を変えるのですが、モネの展示は1964年から2004年まで不変でした。近代美術において継続的に価値が認められていたのです。

モネ自身が意識したかどうか定かではありませんが、彼は、空、天候、池の水面の変化を捉えようとして、天空の運行まで描いていたのではないかと、私は思います。月の引力によって海は脈打ち、地球そのものも形をひずませる。水は宇宙の運行を感じ取る受容器であり、モネは水面を描くことで、天空の動きを作品に封じ込めていると言えます。

モネは目の前の表層をひたすら真摯に描きながら、到達したのは宇宙の深部で、それ故に普遍性がある。だからこそ、私たちをいつまでも魅了するのではないでしょうか。

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