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岩佐又兵衛~武士を捨てた荒木村重の子、怨念の絵師の生涯

2017年06月21日 公開
2019年05月29日 更新

6月22日 This Day in History

今日は何の日 慶安3年6月22日

荒木村重の息子・絵師の岩佐又兵衛勝以が没

慶安3年6月22日(1650年7月20日)、岩佐又兵衛勝以(かつもち)が没しました。江戸時代初期の絵師で、豪華絢爛にして個性あふれる絵巻で知られますが、実は彼はある戦国武将の息子です。

天正7年(1579)、摂津有岡城主・荒木村重が織田信長に謀叛を起こしました。信長はこれを猛烈に攻め立て、10カ月後、兵糧・弾薬も不足する中、村重は毛利氏に支援を仰ぐべく単独で城を抜け出します。しかし主不在の有岡城は内応者が出て、落城。尼崎城に籠った村重の目前に有岡城で捕らえられた者が引き出され、次々に殺されました。村重への見せしめです。また村重一族の者は京都に連行され、30数人が六条河原で斬首されます。

その中にまだ21歳の村重の妻たしがいました。村重より24歳も下であったといいます。たしは河原に引き出されても全く動じることなく、小袖の襟を整えて静かに手を合わせ、その姿は見る者の涙を誘いました。辞世の句は「残しをく そのみどり子の心こそ おもいやられてかなしかりけり」(この世に残していくみどり子の気持ちが思いやられて悲しい)。 このみどり子こそが、乳母に抱かれて城を脱出し、本願寺に匿われた又兵衛でした。荒木村重の息子です。

荒木村重自身は生き延び、一族を死なせてしまったことから自ら道糞と名乗り、豊臣秀吉の御伽衆になりましたが、又兵衛が8歳の時に世を去りました。その後、又兵衛は京都で絵を学びますが、一族の悲劇、特に母親の最期は又兵衛の心にある種屈折した影響を与えます。又兵衛が一時期、こともあろうに一族を虐殺した信長の息子・信雄の御伽衆になったのも、その表われでしょう。しかし又兵衛はほどなく武士を捨て、絵師となります。絵は村重の家臣であった狩野内膳から学んだともいわれますが、その画風は狩野派の枠にとどまらず、大和絵から水墨画まで絵巻の特徴をよく押さえ、独自の境地を開くものでした。通俗的ではないが、俗っぽさを失わず、一癖も二癖もある画風です。

代表作の一つに「山中常盤物語絵巻」があります。源義経の母・常盤御前が、奥州にいる義経に会いたくて旅に出ますが、美濃の山中宿で病に倒れました。そこへ身分卑しからぬ女性がいることを聞きつけた6人の盗賊が押入り、所持品だけでなく、身にまとう着物まで奪い去ります。常盤が「肌を隠す小袖を残すのが人の情けというもの。さもなくば命を奪いなさい」と毅然と叫ぶと、盗賊は刀で常盤の胸を刺して殺す、という物語が描かれた絵巻です。おそらく又兵衛は、常盤を襲った非情な運命に、自分の母親の最期を重ねていたのでしょう。「怨念の絵師」とも呼ばれる所以です。

39歳の時、又兵衛は京都を離れ、福井に居を移しました。以後、20年間は又兵衛が最も活躍した時期ですが、福井藩松平家の御用絵師にはなっていません。60歳の時、3代将軍家光に招かれ、家光の娘・千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の嫁入り道具「初音の調度」をデザインしたともいわれます。また川越の仙波東照宮拝殿に掲げる「三十六歌仙図額」を制作しました。慶安3年、江戸で没。享年73。その後、発見された彼の年譜の書き出しには、「岩佐又兵衛勝以は荒木摂津守村重の末子也」とあります。現在、美術の世界において、又兵衛の再評価が進んでいるようです。

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