2017年09月06日 公開
2018年08月28日 更新
歌川広重「東海道五十三次之内 日本橋」
安政5年9月6日(1858年10月12日)、歌川広重が没しました。「東海道五十三次」をはじめとする名所画で、世界的に知られる絵師です。
広重は寛政9年(1797)、江戸八代洲河岸の幕府定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子に生まれました。幼名徳太郎、のち重右衛門、さらに徳兵衛。 幼い頃から絵を描くのが好きだった広重は文化6年(1809)、13歳の時に父親の火消同心の職を継ぎます。2年後、同心の身でありながら浮世絵師を志し、歌川豊広に入門しました。やがて師の豊広より一字をもらい、広重と名乗ります。
しばらくは火消と絵師を両立させていましたが、27歳の時に家督・家業を養子に譲って、絵師を生業としました。 はじめ、役者絵や美人絵を多く描いていた広重が、名所画で知られるようになるのは、天保2年(1831)に「東都名所」(10枚揃い)を発表してからです。35歳の時のことでした。翌年、幕府が朝廷に駿馬を献上する「八朔御馬進献」の行列に同行して、東海道を京都へと上ります。広重にとって、この体験が大きな転機となりました。
歌川広重「京都名所之内 淀川」
天保4年(1833)、「東海道五十三次」(保永堂版)のシリーズを開始し、翌年に完結。このシリーズは爆発的な人気を呼び、名所画の絵師として広重の地位を不動のものとしました。さらに広重は、「近江八景」「京都名所之内」「江戸近郊八景」「木曾海道六十九次」などを次々と発表します。 広重の作品は大胆な構図とともに、青色の美しさで海外でも高く評価され、「ヒロシゲ・ブルー」と呼ばれて、ヨーロッパの印象派やアール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響を与えました。また西洋の手法であった遠近法も巧みに取り入れ、人々が憧れた遠国の風景に接することのできる手段として、広重の絵は大いに珍重されます。
天保13年(1842)には、日本橋に近い大鋸(おが)町に転居しますが、隣の屋敷は幕府お抱えの御用絵師・狩野家でした。御用絵師と一介の町絵師が隣り合わせるのも面白い話ですが、切絵図に狩野家だけでなく、広重の名も明記されているところに人気のほどが窺えます。
その後、嘉永年間(1848~53)頃には、版画ではなく、肉筆画も多く手がけました。西洋画から取り入れた遠近法は、後に印象派画家、特にゴッホに影響を与えたといわれます。
そして最晩年の安政3年(1856)から5年にかけて、「江戸名所百景」(写真右はそのうちの「大はしあたけの夕立」)を手がけました。江戸府内と郊外の江戸名所を網羅するもので、広重名所絵の集大成というべき傑作です。すべて竪構図の風景版画で、前景手前のモチーフを極端に大きく描き、遠景には富士山や筑波山を小さく入れるという大胆な遠近法を用いていました。ゴッホが模写したことでも有名です。
そして「江戸名所百景」が完成した直後の安政5年に没。享年62。死因は当時流行していたコレラであったといわれます。
当時の江戸はちょっと高いところに上がれば海が望めますし、富士山もよく見えました。広重に描かれた場所は今、大きく変貌していますが、多少でも当時の面影が見つけられると、かなり嬉しいものです。
更新:11月22日 00:05