2022年12月21日 公開
俵屋宗達の「風神雷神図屛風」が所蔵されていた建仁寺
日本人の多くが目にしたことがある「風神雷神図屛風」。この作品を描いた絵師が、俵屋宗達である。しかし、安土桃山から江戸時代にかけて活躍した彼の生涯は、その作品と名前が知られているのに比べ、多くの謎に包まれている。
原田マハ 作家
昭和37年(1962)、東京都生まれ。関西学院大学文学部日本文学科卒。ニューヨーク近代美術館で勤務後、キュレーターとして独立。平成17年(2005)、『カフーを待ちわびて』で日本ラブストーリー大賞を受賞。『楽園のカンヴァス』で山本周五郎賞、『リーチ先生』で新田次郎文学賞、『異邦人』で京都本大賞を受賞。著書に俵屋宗達が主人公の長編小説『風神雷神 Juppiter, Aeolus』などがある。
<聞き手:末國善己(文芸評論家)>
※本稿は『歴史街道』2020年2月号より、抜粋・編集したものです。
世界史的な視野に立つと、日本の安土桃山時代はルネサンス後期にあたり、この時代の美術は、研究者の間では「日本のルネサンス」といわれることもあります。絵画の技法だけを取り出すと共通点はないのですが、それでも似た要素は少なくありません。
たとえば、ボッティチェッリの『ラ・プリマヴェーラ(春)』はきらびやかな自然を取り入れて神を描いていますが、それは当時の日本画のきらびやかさに通じるものがある。また、自然を多く取り入れるモチーフなども共通しているといえるでしょう。
1549年にザビエルが日本にキリスト教を伝え、その後、天下人となった織田信長もキリスト教を許容して、南蛮文化を積極的に取り入れました。さらに信長が経済の自由、文化の自由を認めたことで、茶道、華道、工芸などの世界で、職人たちが自由な発想で技術を磨いた。
その結果、現代の「アート」といわれるものの原形ができあがっていきます。その意味でも安土桃山文化は、ルネサンス的だったといえるでしょう。
織田信長と豊臣秀吉、二人の天下人の下で花開いた安土桃山文化。それを担った一人が、「風神雷神図屛風」で知られる絵師・俵屋宗達です。ただこの宗達、教科書にも載るような有名人でありながら、作品数も少なく、生没年もわからないなど、謎に包まれています。
名前は知られているのに残された作品が少ないところは、ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519年)に近いかもしれません。宗達の「風神雷神図屛風」は、日本の「モナリザ」ともいえるでしょう。
4年前、パリで「ジャポニスム2018」という文化イベントが開かれました。宗達の「風神雷神図屛風」や伊藤若冲(1716〜1800年)の「動植綵絵」が展示されたのですが、宗達は評価されたもののほとんど知られておらず、若冲はようやく知名度が上がってきた感じでした。
欧米では、日本史や日本美術にあまり関心を持たれていません。しかし近代になって注目された浮世絵の影響などもあって、独特の発展を遂げた日本の美術の中に、優れた画家がいたことは理解されています。
宗達もその中の一人で、ユニークな絵を描いた画家として、海外でも認められ始めているのです。
これがまさしく、「アート」というメディアの力です。長い歴史の中に置いた時に、政治や経済とはまったく違う強さを持っていて、優れた作品は国境や時を越えて輝きます。
こうしたアートの力を、織田信長は熟知していたのでしょう。美術を振興するだけでなく、越後の上杉謙信との関係良化を図るために、狩野永徳に描かせた「洛中洛外図屛風」を贈ったりもしています。
ローマ法皇に「安土山図屛風」を献上したとされる天正遣欧少年使節は、誰によって派遣されたのかがはっきりしていません。
しかし、こうしたことや持っていた経済力、政治力などを考え合わせると、やはり織田信長だったのではないか──今年11月に文庫化した宗達を主人公にした小説『風神雷神 Juppiter, Aeolus(ユピテル アイオロス)』では、そうした設定にして物語を展開させました。
俵屋宗達は琳派の祖とされますが、作品が少なく謎も多い。私は、宗達には師がいなかったと考えていますが、それは誰の絵にも似ていないからです。「風神雷神図屛風」には、当時の日本美術の作法から逸脱している面白さがあります。
欧州におけるルネサンスは、三次元を二次元の中で表現する絵画の技法が始まった時代ですが、それに比べると同じ時期の日本画は平面的です。その中にあって、宗達の絵はむしろ、立体的といえるでしょう。
また宗達は、風神と雷神を画面からはみ出すように描く「見切り」を使っています。これはその後、日本画の伝統的な手法になっていきます。
その一方で、見切りは現代的でもあります。実はスマートフォンで撮影する際の画角も見切りで、画像の一部を切り取ることで写っていない外側を暗示させている。ここからも宗達の独自性、そして先駆性が理解できるのではないでしょうか。
時代によって、美の概念は変わります。数百年前は傑作だったのに、現在ではまったく顧みられていない作品になってしまったり、その逆もあります。
今や世界に37点しか残されていないフェルメールも、その典型でしょう。フェルメールは、19世紀に"再発見"された画家といえます。それまでは評価が低く、多くの絵が破壊されたり、捨てられたり、上に絵の具を塗られて別の絵にされたりしていました。
アンリ・ルソーもまた、生前はその作品は笑われていたのですが、パブロ・ピカソのような卓越した画家が擁護し、100年経った今では、世界中の美術館にその作品が展示されています。
ただ俵屋宗達は、安土桃山時代から評価が変わっていません。16世紀後半から約500年の間には、戦争もありましたから、その絵が破壊される可能性も十分にあり得た。
しかも宗達の絵は紙に岩絵具で描かれているので、たとえば天井から雨漏りがして、絵が濡れてしまっただけでも失われてしまうのです。
にもかかわらず、「風神雷神図屛風」は現在に遺った。それは500年前の日本人がこの絵を評価し、後世に遺そうと決めたからです。そしてその想いが、代々受け継がれてきたからなのです。
京都の建仁寺に所蔵されていた「風神雷神図屛風」には、宗達の署名が入っていません。じつはそれが、この名作が海外に流出しなかったきっかけにもなりました。
明治時代になって、フェノロサと岡倉天心が日本美術の調査をした際、日本人自身がその価値を認めていなかったため、多くの名作が海外に買われていきました。ボストン美術館やメトロポリタン美術館が、日本美術の傑作の数々を所蔵しているのはそのためです。
建仁寺に所蔵されていた「風神雷神図屛風」を二人が調査したとき、宗達の署名がなかったことから、「宗達の作品かも」という意味で「?」が付けられました。
歴史のいたずらともいえますが、宗達が署名をせず、フェノロサたちが本物と判断せず「?」を付けたことで、この作品は流出を免れました。それは"奇跡"といってもいいかもしれない。
もし宗達と特定されていたら、おそらく欧米の美術館が買っていたでしょう。欧米の美術館は、真贋のはっきりしない作品は購入しない方針でした。
それを知っていた岡倉天心が、流出を防ぐためにフェノロサが本物と判断した「風神雷神図屛風」に「?」を付けたのか、フェノロサに「?」を付けてくれと頼んだのか...このあたりの事情は謎で、作家の想像力を刺激するところでもあります。
後世に遺そうとした人びとの想いと、海外に流出しなかった奇跡──いろいろなトラブルを乗り越えて、この「風神雷神図屛風」がわれわれに遺されたことを喜びたい、そんな気持ちが、私にこの作品をモチーフにした小説を書かせたのかもしれません。
更新:11月21日 00:05