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国宝・彦根城は「寄せ集め」?会津若松城(鶴ヶ城)赤瓦の理由【名城の謎】

2026年09月14日 公開

真山知幸(伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA))

会津若松城
会津若松城

滋賀県が誇る国宝「彦根城」と、福島県のシンボルである「会津若松城(鶴ヶ城)」。誰もが知る名城ですが、実はその構造や歴史には、知られざる「へんな」ポイントがありました。
彦根城は他のお城の建材を徹底的にかき集めて作られた「リサイクル城」であり、会津若松城は複数の時代の工法が混在した石垣を有していました。本記事では、突貫工事ながら国宝となった彦根城の秘密と、赤瓦や遊女石伝説が残る会津若松城の魅力を解説します。

※本稿は、真山知幸著『ウソみたいだけど本当にあったへんな城』(彩図社)より一部抜粋・編集したものです。

 

[彦根城]石垣や建材は廃城から集めたリサイクル品

【◎所在地:滋賀県彦根市/◎主な城主:井伊直政/◎へんな城度:星1つ】

琵琶湖を背にそびえ立つ彦根城は、国宝に指定された天守を持つ名城として知られる。しかし、その優美さからは想像しにくいが、実は彦根城は、近隣の廃城から石垣や建材をかき集めて建てられた「リサイクル城」だというから、驚くばかりだ。

天守は大津城から移築、天秤櫓は長浜城から、石垣や資材は佐和山城から、西の丸三重櫓は小谷城から――と、主要な建造物のほとんどが他の城からの転用品で組み立てられたと伝えられている。

なぜこれほど大規模なリサイクルが行われたのか。その背景には、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いが関係している。

徳川家康が率いる東軍が勝利すると、重臣の井伊直政は、石田三成の居城だった佐和山城に入封した。直政は「領民が前の城主・三成を慕い続けるのではないか」と考えたのかもしれない。すぐさま新たな城の築城を計画している。

ところが、戦傷が癒えぬまま慶長7(1602)年に、直政は死去してしまう。計画は息子の直継と直孝の兄弟に引き継がれた。

家康としても亡き直政の計画を果たしたいという思いはあったに違いないが、そんな感情を抜きにしても、彦根城の築城を最重要課題だと位置づけていたようだ。豊臣方の大坂城を監視する西国の要衝として、一刻も早く強固な城が必要だったからである。

尾張・越前など7カ国12(15とも)の大名に工事への参加を命じる「天下普請」が発令された。そこで、工期を短縮するために、近隣の廃城の建材を徹底的にリサイクルする方針が採られることとなった。その結果、彦根城は慶長9(1604)年に築城をスタートさせて、天守などの主要部は慶長11(1606)年には、ほぼ完成したという。

天守については、井伊家の歴史書『井伊年譜』には「京極家の大津城の殿手(てんしゅ)だ」と記されている。大津城はもともと5重の天守を持つ城だったが、彦根城へ移築する際に3重に造り直されたとみられる。

昭和32(1957)年の解体修理の際、建材に前身の城での位置を示す番付や符号が刻まれているのが発見されたことからも、大津城から移築された可能性が高まった。家康が「関ヶ原でも落城しなかった縁起の良い天守」として移築を命じたという話も伝わっている。

しかし、いくらコスパもタイパも良いとしても、いかにも寄せ集めの城となれば、徳川の威厳が損なわれてしまう。

だが、完成した彦根城は、そんな心配を吹き飛ばすものだった。切妻破風、入母屋破風、唐破風を巧みに組み合わせた変化に富む外観を持ちながらも、複数の城から集めた部材であることを感じさせない優美な姿に仕上がった。また、天守内部の梁には大津城時代のものと伝わる曲がりくねった木材がそのまま使われており、400年以上を経た今も現役で城を支えている。

明治時代には廃城令によって、彦根城にも解体の危機が迫った。しかし明治11(1878)年、明治天皇が巡幸(天皇が各地をまわること)の際に彦根に立ち寄ったときに、彦根城の保存が決まったという。随行した大隈重信の力添えがあったとも言われる。

無事に生き残った彦根城は、一部の施設は解体されたものの、昭和27(1952)年にその天守が附櫓・多聞櫓とともに正式に国宝の指定を受けた。
廃城から材料をかき集めて急造された城が、400年後に国宝へ。リサイクル城は思いがけない最高の評価を手にすることとなった。

 

[会津若松城]複数の時代の工法が混在した「へんな」石垣

【◎所在地:福島県会津若松市/◎主な城主:保科正之/◎へんな城度:星4つ】

福島県会津若松市のシンボルである会津若松城(別名・鶴ヶ城)は、白い壁と赤い屋根瓦の組み合わせが目を引く。城の天守に赤瓦が使われているのは、現存する天守閣のなかで全国唯一。また、城の石垣には、遊女にまつわる伝説の岩まであるという、何かと逸話の多い城だ。

会津若松城の起源は室町時代初期にさかのぼる。至徳元(1384)年、葦名直盛が「東黒川館」として築いたのが始まりとされる。その後、天正18(1590)年に豊臣秀吉の命で入封した蒲生氏郷が城を大改修し、文禄2(1593)年、東日本初の本格的な7重の天守を建てた。「鶴ヶ城」の名も、氏郷が故郷・近江の若松にちなんで地名を「若松」と改めたのと同時期に定めたものだという。

赤瓦が誕生した背景には、気候との戦いがあった。もともと城には西日本で発達した黒瓦(いぶし瓦)が使われていたが、会津のような豪雪地帯では、瓦に水分が染み込んで凍結し、割れてしまう。そこで寛永20(1643)年に入封した保科正之が新たな瓦を開発。瓦の表面に鉄分を多く含む釉薬を施して焼き上げることで、水分の浸透を防ぎ、凍結に強い赤い瓦が完成した。全国唯一の赤瓦天守は、雪国ならではの知恵の産物だったのだ。

一方、石垣にも「へんな」見どころがある。会津若松城の石垣は、自然石をほぼ加工せずに積む野面積みから、整えた石を隙間なく積む打込接(うちこみはぎ)まで、複数の時代の工法が混在している。これほど多様な石垣技法が一つの城に揃うのは珍しく、石垣の歴史を一望できる城として知られる。

石材の一部は城から約3キロ離れた東山町石山(慶山)から切り出され、木製のそりに載せて人力で運ばれた。その際、人足たちのやる気を出すために遊女を石の上に乗せて運んだという伝説が残る岩が「遊女石」と呼ばれ、今も城内に鎮座している。

慶応4(1868)年、戊辰戦争が勃発すると、会津藩は新政府軍と激突。8月23日から約1カ月にわたる籠城戦が繰り広げられ、城内には砲撃が降り注ぎ、食糧も弾薬も底をついていった。

白虎隊の少年たちが城下の黒煙を見て落城と誤解し自刃するなど、悲劇が相次いだ。それでも城は落ちることなく、9月22日に前藩主の松平容保は降伏を決意し開城した。

明治7(1874)年までに、政府の命令によって天守をはじめとする建物はすべて取り壊された。現在の天守は昭和40(1965)年に再建されたものである。再建当初は黒瓦だったが、平成23(2011)年、保科正之の時代の姿を再現するために屋根が赤瓦に葺き替えられることになった。

赤瓦、遊女石、多様な石垣――。歴史的背景を踏まえれば、そんな一風変わった城の見どころもまた、より深く楽しめそうだ。

プロフィール

真山知幸(まやま・ともゆき)

伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)

1979年、兵庫県生まれ。2002年、同志社大学法学部卒業。京都芸術大学大学院芸術研究科(通信教育)文化遺産領域文化遺産分野を修了。業界誌出版社の編集長を経て、2020年に独立。偉人や歴史、名言などをテーマに執筆活動を行い、メディア出演や講演も多数。

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