2013年06月21日 公開
2022年07月05日 更新
『日新館童子訓』は藩士の各戸にも配布されて家族たちも熟読していましたから、断固戦う決断を下した会津女性たちも数多くいました。その代表格が山本八重であり、薙刀の名手であった中野竹子だといえます。彼女たちの活躍の詳細は別稿に譲りますが、八重の場合おもしろいのは、女性でありながら戦場のリーダーとして活躍したことでしょう。
新政府軍が雪崩込んできた8月23日は、冒頭で述べたように、城内は老人や女子供ばかりでした。そんな中、最新鋭のスペンサー銃を手に城に駆け込んだ八重は、城の北出丸に急行します。城の外郭の1つである甲賀町の郭門を破られたら、北出丸の堀端までは千メートルもありません。しかし、鶴ヶ城はよく出来た城郭で、その堀端からどうやって城内に入れるかがわかりづらく、敵は全身を露出して右往左往するほかありません。そのことがわかっていたからこそ、八重は老兵や少年兵を率いて北出丸で狙撃戦を挑んだのです。
案の定、甲賀町の郭門を突破した敵兵は、一直線に堀端まで攻め寄せてきました。そこで八重は連発式のスペンサー銃で確実に敵の指揮官クラスを狙います。砲術家だった彼女は、敵の指揮官を倒せば銃隊としての組織的な号令が不可能となり、相手の攻撃をもっとも有効に封じることができることを知っていました。北出丸を攻めた土佐兵、薩摩兵の死傷率は極めて高く、薩摩の砲隊を率いていた大山弥助(巌)も、脚を撃たれて後送されています。
さらに彼女は四斤山砲も持ってきて、城壁や石垣の一部を崩して敵に向けてこの砲を設置し、轟然と撃ち下ろしたとも言われます。このようなことは、洋式砲術を学んだ誰かがリーダーとなって数人がかりで取り組まなければ到底できることではありません。「八重がいなかったら、鶴ヶ城は攻め込まれたその日のうちに陥落していたかも知れない」というのは、誇張でも何でもないのです。
八重に限らず、籠城した女性たちは傷病兵の救護や兵糧作り、弾丸作りに獅子奮迅の働きをしました。さらに敵軍が撃ち込んできた砲弾に水で濡らした布団などを被せて砲弾の爆裂を防ぐ「焼玉押さえ」までしています。失敗すれば砲弾の破裂と共にわが身を散らすことになるのです。その勇気たるや、まさに恐るべしと言わざるを得ません。
その一方で、敵が城下に侵入してきた時に自刃した婦女子たちも多かったと最初にお話ししました。彼女たちはなぜ死を選んだのでしょうか。その大きな理由は、自分たちが敵に捕まることで、自分の夫や父親が後ろ髪を引かれて存分に戦えなくなることを恐れたからでした。
また、足手まといの者が城に入っても、兵糧を早く食い潰すだけです。自分たちが今まで生きてきたのは歴代の殿様から禄をいただいたおかげであり、危急の時に穀つぶしになるくらいなら、与えられた生命を捧げるべきだ、と考えてもいました。
さらに女性は、敵に捕らえられて辱めを受けることは断じて避けねばなりません。「自分の人生を見切る」決断をきちんと下せなければ、わが名を穢し、末代まで恥を晒すことになる。そのような気高い美意識もありました。
自刃を選んだ女性たちは、決して「ただ闇雲に死ねばいい」と考えたのではありません。愛する人々のために、そして名誉を守るために、あえてわが身を犠牲にし、敵に一歩も退かぬ会津武士の姿を示したのです。
わが生命を燃やし尽してでも、名を惜しみ、理不尽を断じて許さず ― 男女を問わず武士たちが大切にしていた価値観は、現代のわれわれには一種のアンチテーゼのごときものかも知れません。しかし、そこに透徹した美しさと迫力があることは、決して否定できないでしょう。
われわれも日々、数多くの理不尽に直面しています。そのような理不尽に対し、自分はいかなる道を選ぶのか。それを考えるとき、あくまで自らの誇りと、他者への思いやりを重んじ、理不尽に立ち向かった会津人たちの姿は、多くのことを教えてくれるのです。
更新:11月24日 00:05