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山本八重、スペンサー銃を手に籠城戦へ

2013年05月31日 公開
2022年12月21日 更新

永岡慶之助(作家)

『歴史街道』2013年2月号[総力特集・八重と幕末会津]より

会津若松城

仇はこの姉がとってやる!七連発スペンサー銃を手に籠城戦へ

(この百発を撃ちつくすまで命があればよい)。亡き弟・三郎の形見の着物を身にまとった八重は、腰に大小を差し、七連発スペンサー銃と弾丸100発を携えた。慶応4年(1868)8月23日。この日、新政府軍が城下に迫り、会津藩は籠城戦を挑んだ。

 

八重の籠城

八重は、その朝、突如、鳴りひびいた、籠城をうながす鐘の音を、終生忘れることがなかった。思い出すたびに、体内の血潮が熱くなるのであった。鐘が乱打された日、山本家では、朝食の跡片づけをおえ、八重が自室にひきとった直後のことだった。

「お母様!」

八重は、母の佐久に声をかけてから、素早く身仕度をととのえた。一瞬の躊躇もなく、弟三郎の形見の着物を身につけた。

「三郎、そなたの仇は、この姉がとってやる!」

 彼女は呪文のように呟きながらも手を止めず、刀の大小を腰にたばさんだ。更に彼女は、愛用の新式銃、七連発スペンサー銃を背にし、銃弾100発を持った。

(この100発を撃ちつくすまで命があればよい。それまでに必ず、兄や弟の仇を討ってみせる!)という覚悟であった。

母親佐久は、男装の娘を一瞥した瞬間、
「お八重、お前…」
と目をみはったが、あとは、
「急がねば…」とだけ言った。

八重は、乱打される鐘の音にせき立てられるように、母佐久及び同居している嫂のうらと、その娘みねを伴い、三の丸御門へと急いだ。

日頃は静かな武家屋敷界隈が、異様に殺気立った人々で混雑していた。幼児を背負い、胸元に小風呂敷包みを抱いた若妻、老人の手を引く年輩の婦人、頭に白鉢巻義経袴姿で、薙刀を小脇に抱えた勇ましい婦人などが、一団となって道を急いでいた。廊下橋にいたる頃は、いちだんと混雑したが、中にひどく目立ったのは、白無垢の着物から鮮血をしたたらせた婦人の姿で、恐らくこれは、籠城を目前に、身動きもままならぬ身内の者を介錯して来たものであろうと思われた。

三の丸御門口には、ひしめく人々の沈静をはかるように、白刃を抜刀し、
「落ち着かれよ、たとえ御女中方といえども、卑怯なふる舞いは許しませぬぞ!」
声高に皆を叱咤する藩兵の姿も見られた。

こうした間にも、銃声や砲声が間近に聞かれだしたのだ。

実は、この日慶応4年(1868)8月23日、これまでの仙台を討つとの虚報をふり撒きながら北上していた西軍-薩摩・長州を主軸とした新政府軍が、二本松から急転、会津攻略にとりかかったのだ。難関猪苗代湖畔の十六橋を突破した西軍は、戸ノロ原において、国境守備の会津藩兵をも撃破、一気に進軍しようとした。伝騎によってそれを知った会津藩主松平容保は、急遽、滝沢村の本陣から鶴ヶ城へと入城して、籠城戦を決断。

藩の主力部隊が、国境警備に遠征しているため、彼らが駆け付けて来るまで、残留の老兵を用いて城を支えようとはかったのである。

しかし、予想以上に西軍の銃撃が激しく、戸ノロ原で戦闘をくりひろげている間に、わずか2時間後の8時には、西軍は若松城下へ突入したのである。

土佐出身の西軍参謀板垣退助が、馬上、白刃をふりかざしながら、
「遅るる者は斬る!」
と兵を怒号し、坂を一気に馳せ下ったのはこの時のことである。

たちまち城下のそこかしこで銃撃戦が始まり、火の手が上がった。甲賀町郭門口や、桂林寺郭門口が突破され、銃弾は武家屋敷にまで鋭い音を響かせるようになったのだ。

辛うじて、閉門前に入城できた八重は、嫂のうらに、
「嫂さん、母上を頼みますよ」
といった。うらはおどろいて、
「八重さんは、どうなさるおつもりなの?」
といったが、八重は答えず、頭をさげて引き返した。兄や弟の仇を討つには、家族をはなれ、単独行動のほうがよいと、彼女はひそかに決断したのである。

 

自決炎上

八重たちが無事入城すると、間もなく御門が閉ざされ、遅参した人々は、在方へ落ちのびていった。その直後である。甲賀町、桂林寺町などの郭門口から、薩摩、土佐などの西軍が殺到したのは。それに先立ち、郭内武家屋敷では、足手まといになることを嫌い、籠城を断念した人々が、つぎつぎと自刃して果てた。

それは、家老西郷頼母一族の21人及び、一千石沼沢出雲の家族、二千八百石北原采女の母は、七百石西郷刑部の家族と共に、また、百五十石中野慎之丞の妻34歳は、わが子3人を刺殺した後、井戸へ身を投じている。

二百八十石柴太一郎屋敷においては、家人一同、白衣をつけて仏前にて、祖母、母、妻、姉妹らが、叔父の介錯で命を断っている。長男、三男は、いずれも出陣であり(次男はすでに戦死)、四男茂四郎は白虎隊に編入されたが病気のため生き残って、後に政治家柴四朗となって書いた政治小説『佳人之奇遇』は、ベストセラーとなった。五男五郎は、親戚に託されていたため生きのび、のちに軍人となったが、明治33年(1900)の義和団事件の際、駐在武官として北京に籠城。籠城中のその言動は、各国外交官の賞讃を浴びたものであった。後年、彼は陸軍大将にまで昇進したが、後に刊行された『会津人柴五郎の遺書』の中に、

「ああ自刃して果てたる祖母、姉妹の犠牲、何をもって償わん」

と痛恨の文字を刻んでいる。が、これらは後日のこと。郭内に突入した西軍は、ただちに北出丸攻略にとりかかった。

北出丸御門は、藩主および公用をおびた重役のみが出入する鶴ヶ城の表門である。西軍の銃撃に対して、城中からも激しく応戦した。

八重もこれに参加、銃眼からスペンサー銃を撃ちまくった。そのうち、西軍の銃声が砲声にかわった。これは薩摩の大山弥助(のちの厳)の率いる二番砲隊が、活動を開始したのである。たちまち犠牲者が続出した。城中の旧式ゲベール銃などでは、到底太刀打ち出来るものではない。

(このままでは表御門が突破されてしまう!)

八重の脳裏に、その時、ひらめくものがあった。城中に四斤山砲があったことを思い出したのだ。八重は、玄武隊の兵によってこれを運び込むと、城壁の土台の石垣を突き崩し、そこから山砲の砲身を差し出して、砲撃を開始した。老兵たちは、彼女の指示に従って弾丸の装填をし発射した。最初のうちは不器用だった彼等は、次第に馴れて、敵陣に着弾するや、面白がって連続発射した結果、さしもの薩摩砲隊も沈黙し、撤退した、と知ると歓声をあげたものだった。

このことから初め男装の八重を見て、単なる「お転婆娘」ほどに思っていた彼等も、最後は、言葉遣いまで改めて接するようになった。「いやあ、女ながら、大したものだ」と。

こうして八重の籠城は始まった。

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