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会津戦争がもたらした山本八重の家族・それぞれの道

2013年02月25日 公開
2022年11月14日 更新

『歴史街道』編集部

明治以降の八重たちの歩み

鳥羽伏見の戦いで、兄・覚馬は行方不明(処刑されたと伝えられた)、弟・三郎は戦死 ―― その悲報で幕を開けた「八重の戊辰戦争」だったが、会津戦争によって、さらなる悲劇に見舞われることになる。

61歳の父・権八は、50歳以上の藩士で構成された玄武隊に所属して連戦していた。しかし、南方の兵端を断つベく攻めてきた西軍(新政府軍)と激突した一ノ堰で、遂に戦死する。降伏間近の9月17日のことであった。

降伏開城すると、藩士は猪苗代、そして東京で謹慎を命じられ、女性や老人、子供は塩川(喜多方市塩川)から喜多方周辺の農家に当面住むように命じられる。八重と母佐久、兄嫁うら、姪みねの4人もしばらくはそこに滞在していたようだが、その後、米沢に移った。会津に留学して川崎尚之助に砲術を師事していた米沢藩士・内藤新一郎が、山本家の窮状を見かねて援助の手を差し伸へてくれたのである。

やがて覚馬が京都で生存していることがわかり、一家は明治4年(1871)、京都へ向かうことになる。しかしそこに覚馬の嫁うらの姿はなかった。その時すでに京都では、身体が不自由になった覚馬を時栄という女性が献身的に支えていた。京都で覚馬が開いた洋学所に学んだ丹波郷士・小田勝太郎が、目の不自由な覚馬のために、自分の妹・時栄に身の回りの世話をさせたのがきっかけだというが、八重たちが京都に向かった年には、久栄という娘も誕生している。恐らくうらは、自ら身を引く決断を下したのであろう。

また、八重の最初の夫、川崎尚之助もいなかった。尚之助は会津戦争の頃には会津藩士になっていたらしく、他の藩士と共に謹慎した後、会津藩が再興を許された地・斗南(青森・下北半島)に向かったのである。なぜ八重たちを連れず、単身で斗南に向かったのか。藩士に取り立ててくれた会津藩への恩義を感じつつ、しかし蘭学者らしい合理的精神で斗南での苦労を予見し、当座、かつての弟子で米沢藩士の内藤に家族を預けたほうが安心と考えたのだろうか。

とはいえ酷寒の地、斗南の苦境は尚之助の想像さえはるかに超えた。藩士の餓死の危機を脱するために、尚之助はデンマーク領事で商人でもあったデュースから広東米を調達しようとする。しかし、仲介した日本人貿易商が契約を履行せず、尚之助はデュースから損害賠償の訴訟を起こされてしまった。藩を巻き込むことを恐れた尚之助は、すべての罪を一身にかぶり、東京での司法裁判に臨むのである。八重とはこの時に離緑したのだろうか(一説に会津戦争前後に離緑ともいう)。

八重と共に京都に向かった母佐久と姪のみねのその後にも触れておこう。

佐久は因循なところが全くなく、八重の受洗に続いて明治9年(1876)末にキリスト教の洗礼を受ける。そして同志社女学校の舎監を務め、女子生徒たちに実の祖母のようにやさしく接し、「山本のおばあさま」と慕われた。

みねも佐久と共に洗礼を受けた。後に同志社女学校を卒業。同志社兵学校第一回卒業生で横井小楠の長男である横井時雄と、明治14年(1881)に結ばれる。だが、明治20年(1887)、長男の平馬を出産後、病死する。

時代の激動に翻弄された山本家。明治以降の八重たちの歩みの陰には、1人ひとりのドラマがあったのである。

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