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『ばけばけ』の小泉八雲で注目!クラーク、フェノロサら御雇い外国人の知られざる素顔

安藤優一郎(歴史家)

明治期に日本にやってきた御雇い外国人。彼らの意外な素顔とは

連続テレビ小説『ばけばけ』のモデルとなった小泉八雲のように、明治時代、日本に多くの外国人がやってきました。特に明治初期には、政府によって多くの外国人、すなわち「お雇い外国人」が招かれ、西洋の知識が日本に持ち込まれています。

「Boys,be ambitious!」で知られるクラーク、大森貝塚を発見したモースなどが有名ですが、彼らの素顔は、我々の持つイメージとはすこし異なっていたようで...。

※本稿は、『歴史街道』2021年12月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

明治国家の近代化路線において、「御雇い外国人」の果たした役割が非常に大きかったことは広く知られている。御雇い外国人とは、主に明治政府が西洋文明を日本に導入するため雇用した外国人を指すので、西洋人、つまり欧米人であった。

欧米から技術者や学者を大勢招聘し、行政・法制・建築・科学など諸分野の指導に当たらせた。その数は計3000人前後にも達したという。近代化に対する政府の力の入れようが分かる数字だが、御雇い外国人への大いなる期待は高額な給料からも一目瞭然だ。政府のトップよりも高給取りの者さえ珍しくなかったからである。国籍でみると、その大半はイギリス・フランス・アメリカ・ドイツだった。
本稿では、その中から4人のアメリカ人を取り上げる。

 

【クラーク】当初の目的は開拓者の育成だった

御雇い外国人と言えば、『少年よ大志を抱け』(Boys,be ambitious!)のフレーズで有名な札幌農学校教頭のクラーク博士が代表格として挙げられるだろう。専門は化学、植物学、動物学だが、その代名詞となったフレーズゆえに、教育者としてのイメージが強い人物でもあった。

1826年にアメリカのマサチューセッツ州で生まれたクラークは、ウィンストン神学校、そしてアマースト大学で学び、ドイツのゲッティンゲン大学に留学した。帰国後、母校アマースト大学の教授に迎えられるが、同大学には日本との縁を結ぶことになる日本人が学んでいた。同志社大学の創立者となる新島襄である。

幕府が倒れた年(慶応3年)にあたる1867年9月に人学した新島は、クラークの授業も受講したようだが、同年8月に、クラークはマサチューセッツ農科大学の学長に就任している。

一方、蝦夷地改め北海道の開拓に力を入れる明治政府は、明治2年(1869)7月に開拓使を創設する。開拓使は単なる一地方機関ではなく、政府各省と同格とされたが、開拓使を取り仕切ったのは次官(後の長官)の薩摩藩士黒田清隆であった。

黒田は御雇い外国人の力を借りて開拓を進めようと人選を進めていたが、新島がクラーク招聘を駐米公使森有礼を介して説いた。その能力を認めた開拓使からの説得に応じたクラークは、明治9年(1876)7月に札幌農学校教頭への就任を承諾する。

同校の目的は開拓に必要な人材の育成にあった。よって、農業の教育はもちろんだが、クラークの方針に従って人格者たることを目指した人間教育が行なわれたため、いきおい教育者としてのイメージが強くなったと言えよう。

クラークが札幌にいたのは、わずか9か月に過ぎない。北海道開拓への貢献度はさほど大きくなかったかもしれないが、人間教育の面では多大な影響を与えた。クラークに学んだ学生には、国際連盟の事務局長となる新渡戸稲造や、日露戦争時の反戦活動で知られる内村鑑三などがおり、その影響は多分野に及んでいる。

 

【モース】考古学者ではなく動物学者

次に取り上げるのは、大森貝塚の発見者として著名な動物学者のモースである。

1838年にアメリカのメイン州で生まれたモースは、ハーバード大学で生物・地質学者のアガシーに師事し、貝類の研究に関心を持つ。そして明治10年(1877)6月に、日本近海に生息するシャミセンガイなどの腕足類を研究するため来日した。

横浜に上陸したモースは東京に向かおうと汽車に乗ったが、その途中の大森で、車窓から貝の殻が堆積した貝層を発見する。大森貝塚の発見である。貝塚とは昔のゴミ捨て場のことで、貝のほか動物の骨、土器・石器などが多数埋まっていた。

その後、政府の許可を得たモースは9月から12月にかけ、貝塚の発掘調査を開始する。日本最初の学術的発掘だった。同12年(1879)に、その発掘報告書;Shell Mounds of Omori;を出版し、日本にも石器時代が存在したことを立証する。貝塚から出土した土器に縄目の文様が付いていることにも注目したが、これを機に縄文土器の名称が生まれた。こうして、大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と呼ばれるに至る。

文部省の要請により、動物学専攻の東京大学教授に就任したモースは、動物標本などを採集するため、学生を連れ全国各地を訪れたが、やがて日本の陶磁器や美術品、さらには民具にまで関心を寄せるようになる。日本の庶民の暮らしや心根に魅了されたのだ。

モースが採集して持ち帰った日本の陶磁器や民具はモースコレクションと呼ばれ、全米最古の博物館といわれるピーボディ・エセックス博物館や、ボストン美術館に現在も所蔵されている。モースは日本美術品の紹介にも非常に熱心だった。

日本人と日本文化に魅了されたモースは、多くのアメリカ人に訪日を勧めたが、その一人が次に取り上げるフェノロサなのであった。

 

【フェノロサ】専攻は哲学だが、日本画の復興に貢献

モースの推薦で来日したフェノロサは、東京美術学校(現東京藝術大学)の設立に貢献した岡倉天心とのセットで取り上げられることが多い、御雇い外国人である。美術研究家としてイメージされるが、もともとは哲学を専攻した人物だった。

ペリー来航の年にあたる1853年に、アメリカのマサチューセッツ州で生まれたフェノロサは、ハーバード大学で哲学を学んだ。明治11年(1878)にモースの勧めで来日したが、その前年、ボストン美術館に新設された学校で絵画を学んだことが、日本での活動に大きな影響を与えることになる。

来日したフェノロサは東京大学で哲学や経済学などを教えた。その講義を受けた一人が岡倉天心だが、浮世絵や仏像など日本の古美術品に魅了されたフェノロサは、その収集、そして研究もはじめる。

ところが、当時の日本は文明開化の旗印のもと西洋化が強力に推進される余り、日本の伝統的文化が排斥される傾向が甚だしかった。由緒ある文化財が売り払われ、あるいは破壊された。廃仏毀釈の嵐も吹き荒れたことで、とりわけ仏像や仏画などは次々と破棄されていった。

この風潮を大いに嘆いたフェノロサは、日本の伝統的美術の復興を志す。京都や奈良で古美術の調査を開始するが、その時に助手を務めたのが教え子の天心だった。

調査だけでなく、同15年(1882)には日本画の復興を唱えた講演(「美術真説」)を行なった。17年(1884)には、日本画復興のため天心たちと鑑画会を設立し、狩野芳涯や橋本雅邦を世に出した。

さらにフェノロサは、天心による東京美術学校の開設にも協力する。開設後は美術史を講義し、後進の育成を目指した。帰国後はボストン美術館東洋部長に就任したが、その後も来日をし続け、日本画の復興に心血を注いだのである。

 

【ジェーンズ】教員として多くの教科を教えた退役軍人

御雇い外国人は明治政府により招聘されることが多かったが、次に取り上げるジェーンズは、廃藩置県前に熊本藩が招聘した人物である。退役軍人からの転身という珍しい事例だ。

1838年にアメリカのオハイオ州で生まれたジェーンズは、1856年にウェストポイント陸軍士官学校に入り、卒業と同時に北軍士官として南北戦争に従軍する。大尉で退役すると、メリーランド州で農業に従事したが、明治4年(1871)8月に来日して熊本に向かう。9月には熊本洋学校の教員として教壇に立つ。

廃藩置県までの短期間となるが、欧米人の技術者や学者を廃藩置県の少し前に招聘して近代化を推進した藩は少なくない。熊本藩もその一つだ。次世代育成の観点から西洋の学問を教授する学校の建設を目指したが、それが熊本洋学校である。

設立を主導したのは、天下にその名が知られた横井小楠の甥にあたる横井太平たちだった。彼らの奔走により、ジェーンズが教師として招聘されることが決まるが、熊本到着前の4年7月に廃藩置県のため熊本藩は消滅し、熊本県に生まれ変わる。洋学校の設立事業は熊本県に引き継がれ、9月に開校となった。

洋学校は男女共学で身分に拘らず入学できたが、英語、数学、歴史、地理、化学、天文、地質、生物などの各教科をジェーンズが一人で教えた。それも英語での指導であった。さらに、グループ学習を取り入れていたことも画期的であり、欧米仕込みの最先端の教育システムが取られていたと評価できよう。ジャーナリストとして知られた徳富蘇峰も生徒の一人だった。

熊本洋学校では月謝、教材費、文具費、寮費に至るまで、すべて公費で賄われた。熊本県が洋学校の教育に、いかに期待していたかが分かる。

ジェーンズは洋学校で教える一方、自宅では聖書研究会を開催した。この研究会に参加した学生たちが後に結成したのが、日本のプロテスタントの源流の一つとされる「熊本バンド」だ。ジェーンズは西洋式の最先端の教育システムを導入しただけでなく、日本のキリスト教の歴史にも大きな足跡を残したのである。

プロフィール

安藤優一郎(あんどう・ゆういちろう)

歴史家

昭和40年(1965)、千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士後期課程満期退学(文学博士)。江戸をテーマとする執筆、講演活動を展開。おもな著書に、『明治維新 隠された真実』『教科書には載っていない 維新直後の日本』『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』などがある。

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