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北条時行はどんな人物? 7歳で挙兵し、18年間戦い続けた波乱の人生

2025年09月24日 公開

鈴木由美(中世内乱研究会会長)

腹切りやぐら
東勝寺跡 腹切やぐら入口

後醍醐天皇による建武政権の発足後、それに対する反乱「中先代の乱」が勃発。その旗印となったのは、わずか7歳ほどという北条時行であった。北条得宗家の血を引く少年は、それから18年にわたって、戦いの日々を送る。一体、彼は何者だったのか。

 

鎌倉幕府の成立と北条氏

北条時行は、鎌倉時代末から南北朝時代を生きた武将である。

時行の事績で最も有名なのは、「中先代の乱」を起こしたことである。鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇の建武政権に対する反乱だ。

「中先代」とは、北条氏を「先代」、足利氏を「当御代」(「当代」に「御」の敬称がついた)と呼び、その中間にあたる時行が「中先代」と称されたと考えられる。

中先代の乱では、時行は鎌倉を20日間ほど占領したものの、足利尊氏に敗北して鎌倉を奪還された。しかし時行は、約18年後に処刑されるまで戦いを止めることはなかった。

時行はどのような境遇に生まれ、どのような生涯を送ったのだろうか。

時行が生まれた鎌倉時代は、源頼朝が武士の政権である鎌倉幕府を開いたことからはじまる。

頼朝は治承4年(1180)8月に伊豆で挙兵し、東国武士を味方につけて勢力を拡大し、父祖ゆかりの地鎌倉に入った。

やがて頼朝は朝廷から東国の支配権を承認され、朝廷とは別に武士の政権が成立する。頼朝は鎌倉幕府の首長となり初代将軍となる。頼朝を支持した武士たちは、彼と主従関係を結んで御家人と呼ばれた。鎌倉幕府は武士がつくった、日本初の本格的な武家政権であった。

頼朝が正治元年(1199)正月に死去した後、連続して起こった御家人たちの抗争を制し幕府の権力を握ったのは、頼朝の妻政子の父である北条時政とその子義時であった。

時政は、幕府の行財政を司る政所の別当(長官、政所は複数制)のトップ、執権別当の地位に就いた。これが鎌倉幕府将軍の後見役、執権の原型である。

義時は父時政を排斥した約4年後に政所別当となり、次いで建保元年(1213)5月には侍所(幕府の軍事を司る組織)別当の和田義盛を滅ぼして侍所別当に就任し、政所・侍所両別当を兼ねた。この両別当を兼任するのが、幕府職制の頂点となる執権である。執権は連署(副執権)とともに、北条氏が独占的に就任する職となった。

承久3年(1221)、後鳥羽上皇は幕府を倒そうとして敗れる(承久の乱)。幕府は後鳥羽と土御門・順徳の三上皇を配流し、後鳥羽の孫の仲恭天皇を廃位した。

武士の意向で天皇の位が改められたのであり、承久の乱の勝利は、日本社会での幕府の地位を大きく変えた。

北条氏は、執権・連署や寄合衆などの幕府要職を多く占め権力を握った。北条義時の子の泰時以降、当主(得宗という)を出した北条氏の嫡流を得宗家と呼ぶ。鎌倉時代後期には、得宗に権力が集中した。最後の得宗高時の次男が時行である。

 

幕府の滅亡と時行の逃避

鎌倉幕府滅亡の直接的な契機となったのは、後醍醐天皇の倒幕運動である。

鎌倉時代中期以降の天皇家は、後嵯峨天皇の子、後深草天皇の家系(持明院統)と亀山天皇の家系(大覚寺統)に分裂して、一代または二代ごとに交互に皇位を継承していた。これを両統迭立という。

後醍醐は大覚寺統の天皇であったが、一代限りの中継ぎであった。後醍醐が天皇であり続け、子孫に皇位を伝えるために、両統迭立という原則と、それを支持する鎌倉幕府を倒す必要があったのだ。

後醍醐は二度の倒幕運動に失敗し、元弘2年(正慶元、1332)3月に幕府によって隠岐島に配流された。だが、その後も後醍醐方の幕府への反抗は止まらなかった。

元弘3年(正慶2、1333)5月、後醍醐方に寝返った足利高氏(尊氏)が鎌倉幕府の京都出先機関である六波羅探題を滅ぼし、新田義貞が鎌倉を攻略。得宗北条高時らは自害して、幕府は滅亡した。軍記物語『太平記』によれば、高時とともに873人が自害し、鎌倉中の犠牲者は6000余人に及んだという。

この時、時行は叔父北条泰家の指示によって、御内人(得宗家の家臣)の諏訪盛高に伴われて信濃に落ち延び、諏訪上社の大祝(神官のトップ)であった諏訪頼重に匿われた。

時行の父高時の正室は、有力御家人安達氏の出身(安達時顕の娘)であった。得宗家は北条時氏、時宗、貞時、高時と安達氏の娘を正室に迎えていた。

正中2年(1325)11月に長男の邦時を生んだ常葉前は、高時の側室であった。『太平記』は、邦時と時行の母は同じで、御内人五大院宗繁の妹とする。

側室を母に持つ邦時ではあるが、一貫して高時の嫡子として扱われている。高時と正室の間に男子が生まれていれば、その子が嫡子となり邦時は庶子とされたはずである。よって、時行が邦時の同母弟かはともかく、時行の母が正室安達氏であった可能性はほとんどない。

筆者は、時行は元徳元年(1329)12月頃の誕生と推定している。これが正しければ、時行は邦時の4歳下の弟で、幕府滅亡時には5歳(数え年、以下同じ)となる。

鎌倉幕府滅亡後、京に戻った後醍醐天皇は、記録所(朝廷の重要事項を扱う訴訟機関)や雑訴決断所 (土地関係の訴訟を扱う機関)などを設置して政務を開始した。この後醍醐の政権は、年号から建武政権と呼ばれる。

 

時行の挙兵と最期

しかし、幕府滅亡の約半年後から、各地で建武政権への反乱が起こる。その半数以上が、北条氏や北条氏の家臣の一族による反乱であった。

彼らの目的は幕府再興であっただろうが、それ以外にも、武士たちにとって最重要であった所領安堵 (支配地の承認)や恩賞給付が順調に進まず、全国的な規模で不満が存在したためと考えられる。

建武2年(1335)6月、京で西園寺公宗の謀叛計画が発覚し、公宗は捕らえられた。西園寺氏は、関東申次という朝廷と鎌倉幕府のパイプ役を代々務めた公卿(最上級貴族)であった。

『太平記』によると、公宗は幕府再興と自らの権力回復のため、鎌倉幕府が擁立していた持明院統の光厳上皇を奉じ、北条泰家を京都の大将、北条時行を関東の大将、名越(北条)時兼を北国(北陸)の大将として蜂起する計画を立てたという。

公宗の計画は失敗したが、時行は諏訪頼重らに擁され信濃に挙兵する。中先代の乱の勃発である。この時の時行は、7歳ほどであった。時行方の主力は、諏訪氏を中心とする「神党」という武士団の連合体であり、彼らの目的は鎌倉幕府再興にあった。

挙兵した時行らは鎌倉を目指す。鎌倉には後醍醐天皇の皇子成良親王を擁した足利直義(尊氏の弟)が守る鎌倉将軍府(建武政権の関東統治機関)があった。

時行方は建武政権方との数度の戦闘に勝利し、7月24日には鎌倉を奪回した。

鎌倉の状況を知った足利尊氏は、後醍醐天皇の許可を得ぬまま8月2日に京を出て、時行討伐のため鎌倉へ向かった。

尊氏は、8月9日に遠江橋本(静岡県湖西市)で最初の戦闘となって以降、連戦連勝で時行方を破り、8月19日に鎌倉を取り戻した。諏訪頼重らは鎌倉の大御堂(勝長寿院)で自害し、時行は再び鎌倉から落ち延びた。

中先代の乱を鎮圧した足利尊氏は、建武政権から離反し京へ攻め上った。延元元年(建武3、1336)2月に光厳上皇から院宣を得た尊氏は、6月に後醍醐方を破り京に入る。8月には、光厳上皇の弟豊仁親王を天皇とした(光明天皇)。

11月、尊氏は『建武式目』を制定する(室町幕府の成立)。翌12月、軟禁されていた後醍醐は京を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)に南朝を開き、後醍醐の南朝と光明の北朝、天皇が二人並び立つ南北朝時代となった。

一方、北条時行は南朝に赦免を願い出る。父と幕府を滅ぼした後醍醐の南朝に属してまで、時行は自家を裏切った足利尊氏・直義と戦い続ける道を選んだのである。

南朝に帰順した時行の動向を『太平記』でみると、時行は尊氏追討のために上洛する北畠顕家に呼応して、伊豆で挙兵する。顕家と合流した時行は延元2年(建武4、1337)12月に鎌倉に入った。京を目指して進軍する顕家に、遠江井伊城(静岡県浜松市浜名区)に居た後醍醐天皇の皇子宗良親王も合流した。

顕家軍は美濃青野原 (岐阜県大垣市・垂井町)近辺で足利方と戦闘となった。時行は高重茂を墨俣川(同大垣市)で破る。顕家も青野原で土岐頼遠と合戦となり勝利するが、伊勢方面に転戦した。そして延元3年(暦応元、1338)5月、顕家は和泉堺浦 (大阪府堺市)で討死する。

時行が、顕家とどこまで行動をともにしたかは不明である。途中で顕家と別れた宗良親王に同行して吉野に向かったとも言われている。

顕家の死後、南朝の根拠地を築くため、伊勢大湊(三重県伊勢市)から各地へ派遣された南朝の船団のうち、時行は宗良親王の船団に属して遠江に着き、遠江井伊城に入ったという。

その後の興国元年(暦応三、1340)6月、時行は諏訪上社大祝諏訪頼継(頼重の孫)とともに信濃大徳王寺城で挙兵し、約4ケ月の籠城戦の末に、信濃守護小笠原貞宗に敗れたという(「守矢貞実手記」)。

次に時行があらわれるのは、10年余り後である。正平7年(文和元、1352)閏2月、南朝方は、室町幕府の内部抗争である観応の擾乱に乗じて、京・鎌倉同時制圧のため軍事行動を起こす。鎌倉を攻めた新田義興とともに、時行も鎌倉に入っている。これが、時行にとって三度目にして最後の鎌倉入りとなった。

義興と時行は閏2月23日に鎌倉を出て、相模三浦(神奈川県三浦市・横須賀市周辺)へ向かった。援軍を求めに行ったのであろう。だが、28日の石塔義基らと義興・三浦高通との戦闘では、時行の名は見えない。それから約1年後の正平8年(文和2、1353)5月20日、時行は龍口(神奈川県藤沢市)で処刑された。

 

戦いの日々が示すもの

北条時行がどういう性格で、何を思い行動したのか、具体的に知る史料はほとんどない。よって、時行の人となりを推し量るには、彼の行動や周囲の状況から推測するしかない。

中先代の乱で戦陣に立った時、時行は推定七歳の少年であった。そんな彼を支持する勢力があったからこそ挙兵できたのである。

時行の下に結集した人々は、幼い時行の器量についていったわけではなく、先代の権力者北条氏の後継者という、彼の血筋を重要視したのであろう。時行は担がれた大将ではあったが、鎌倉幕府と一族の再興を目指し、幼くして戦いに身を投じたのである。

中先代の乱で敗れた時行には、身分を隠して出家するなり、生き延びる術はあった。しかし、5歳で鎌倉滅亡を見、7歳で諏訪頼重たちの凄惨な自害を見た時行は、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇の南朝に帰順してまで、戦い続ける道を選んだ。

幕府滅亡からほぼ20年後に龍口で処刑された時行には、長崎駿河四郎・工藤二郎の二人が従っていた。

長崎も工藤も、代々得宗家に仕えた御内人の家である。彼らの家が代々仕えた幕府は滅び、主家得宗家も時行ひとりが残るのみであった。時行から離れて生きる道を探しても良かったはずである。それでも、彼らはそうはせずに時行と最期をともにした。

長崎と工藤が時行の傍らに居続けたのは、時行が得宗家の後継者であるからだけではなく、時行自身に人を引き付ける器量があったからであろう。

時行の属した南朝がそうであったように、時行の戦いには、ゲリラ戦の側面があったはずである。ゲリラ戦は、正規軍を敵にまわして長期の戦いを続けることができる。だが、そのためには、広範な人々の支持と協力がなければならない。

鎌倉滅亡から数えれば20年に2日足りなかった時行の戦いの日々が、時行の人柄・器量を示していると言えるだろう。

 

【鈴木由美(すずき・ゆみ)】
中世内乱研究会会長。昭和51年(1976)、東京都生まれ。帝京大学文学部史学科卒業。著書に『中先代の乱』、共著に『南朝研究の最前線』などがある。

 

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