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織田信長からの協力要請を拒否? 何度負けても「信長に抗った」六角義賢・義治父子の生涯

2025年08月22日 公開

鷹橋忍(作家)

六角父子の生涯

織田信長と戦わずして敗れた......。南近江の戦国大名、六角義賢(ろっかくよしかた)・義治(よしはる)父子は、そのように見られがちだ。だが、それは違う。敗れはしたものの、そのたびに再起し、信長に抗い続けたのだ。父子の生涯を辿ったとき、彼らを「敗者」と言い切れるだろうか。

※本稿は、『歴史街道』2024年8月号より、内容を一部抜粋・編集したものです

 

六角氏の嫡流は、近江守護の名門だった

南近江の戦国大名・六角義賢は大永元年(1521)、六角氏当主・定頼の長男として生まれた。母は、美濃土岐家出身の慈寿院である。義賢はのちに戦うことになる織田信長より、13歳年上となる。

六角氏は、宇多源氏佐々木氏の嫡流である。佐々木氏は、近江国蒲生郡佐々木庄(滋賀県近江八幡市)を名字の地とし、約400年もの長きにわたり近江守護を務めた名門だ。

鎌倉時代初期の惣領・佐々木信綱の息子の代に四家に分かれ、三男の泰綱が惣領となり、近江守護を引き継ぎ、六角氏を名乗った。ちなみに「六角」の名は、京都の邸宅が六角東洞院(ひがしのとういん)にあったことに由来する。

六角氏はほぼ一貫して近江守護の立場にあったが、支配領域は近江一国ではなく、南近江のみである。北近江は、佐々木氏庶子家の京極氏(佐々木信綱の四男・氏信より興った一族)の勢力下にあった。

だが、力がなかったわけではない。義賢の祖父・六角高頼は室町幕府と敵対し、長享元年(1487)に9代将軍・足利義尚から第一次六角征伐、延徳3年(1491)に10代将軍・足利義稙から第二次六角征伐と、二度の親征を受けているが、どちらも退けている。六角氏は、追討軍にも負けない軍事力を持っていたのだ。

家督を継いだ高頼の嫡子・六角氏綱が早世すると、義賢の父・定頼が当主になり、六角氏は全盛期を迎える。

定頼は、政情不安定になった京都から近江に逃れた12代将軍・足利義晴を、居城である観音寺(かんのんじ)城が築かれた繖山(きぬがさやま)の西麓にある桑実寺(くわのみでら)に迎え入れるなどして庇護し、政治的な地位を向上させた。義晴政権の諮問役として幕政にも関わっている。

義賢は天文2年(1533)、数えで13歳のときに元服しているが、その祝いには桑実寺に滞在中の足利義晴が御成している。義賢の「義」の字も、義晴からの偏諱である。

天文15年(1546)12月、義晴の子で、のちに13代将軍となる足利義輝の元服加冠の際には、父・定頼が加冠役を務め、義賢が護衛にあたっている。このように、義賢は早くより父と行動を共にし、政治や軍事、外交などに関わってきた。

天文21年(1552)正月2日、定頼が死去すると、義賢は32歳で家督を相続する。敵対していた三好長慶と和睦し、北近江の京極・浅井方との対決に備えるなど、義賢は当主として充分な役割を果たしていった。幕府や社寺権門からも頼られていたという。だが、義賢が当主でいたのは、僅か6年のことであった。

 

義賢と義治の親子関係は 

義賢は38歳の永禄元年(1558)頃に出家し、抜関斎承禎(ばっかんさいじょうてい)と称した。このとき、嫡男・六角義治(当時は義弼〈よしすけ〉)に家督を譲ったようである。義治は、天文13年(1544)生まれとされ(村井祐樹『戦国大名佐々木六角氏の基礎研究』)、このとき15歳であった。

だが、義賢は家督移譲後も文書を発給するなど、政治的な活動を継続しており、実権を握り続けていた。そのため、前当主と現当主が並立する二重権力の状態が発生し、義賢と義治の関係は、政治路線や考え方の違いなどから次第に悪化。

永禄3年(1560)7月には、義治が相談なく美濃の斎藤義龍の娘と婚姻関係を結ぼうとしたことを、義賢に叱責され、永源寺(滋賀県東近江市)に逼塞してしまうという事件も起きている。

さらに3年後の永禄6年(1563)10月、六角氏を揺るがす「観音寺騒動」が勃発。

騒動は、義治が重臣筆頭の後藤賢豊・又三郎父子を、観音寺城で誅殺したことに端を発する。誅殺におよんだ理由は不明だが、義治が後藤氏の勢力拡大を恐れたからともいわれる。

義治の非道な行ないに、永田、三上、進藤、平井らの六角氏重臣たちは怒りを爆発させた。重臣たちは観音寺城に在住していたが、城内の自らの屋敷を焼き払うと本拠に退いて、叛意をあらわにする。離反した家臣たちは北近江の浅井氏を頼り、浅井氏が騒動に乗じて、愛知(えち)郡の四十九院(しじゅうくいん。滋賀県豊郷町)まで進軍してきた。

この情勢を受け、義賢は甲賀郡の三雲氏のもとへ、義治は蒲生氏を頼って蒲生郡日野(滋賀県日野町)へ、それぞれ逃避する。

その後、六角氏重臣・蒲生定秀らのとりなしで、義賢・義治父子は観音寺城に戻り、家臣たちも帰参した。だが、義治の当主としての威信は地に落ち、六角氏は衰退の道を辿っていくことになる。

 

粘り強く信長に抗い続けたが...

永禄10年(1567)4月には、観音寺騒動以来の領国の混乱を収拾するため、分国法「六角氏式目」が制定される。分国法とは、自身の領国内のみで通用する法典のことであり、20名の六角氏重臣が起草し、それを義賢・義治父子が承認する形で成立した。

だが、六角氏式目が長く使われることはなかった。翌年、義賢・義治父子は、足利義昭を奉じた織田信長により、観音寺城を追われるからだ。

永禄11年(1568)8月、義賢のもとに、織田信長から足利義昭の上洛への協力を要請する書状が届いた。

しかし、義賢がこれを拒否したため、信長は六角氏制圧に踏み切る。上洛の途上で、信長は義賢・義治父子が籠もる観音寺城と箕作(みつくり)城(滋賀県東近江市)を攻めることとした。

同年9月12日、申の刻(午後4時前後)から攻撃された箕作城が夜に陥落すると、義賢・義治父子は観音寺城を後にし、甲賀方面へと落去した。このとき、主だった六角氏家臣たちは信長に降っている。これをもって、戦国大名としての六角氏の滅亡とされることが多い。

六角氏は戦わずして信長に敗れたといわれるが、このとき義賢は落去先の甲賀郡などで勢力を蓄えて、観音寺城に返り咲くつもりだったとみられている。その証拠に、観音寺城を追われてからも、義賢・義治父子は、信長と戦い続けているのだ。

元亀元年(1570)4月、義賢・義治父子は信長に反旗を翻した浅井長政に呼応し、反信長の軍事行動をはじめた。

6月には南近江で一揆を扇動し、北進して野洲河原(やすがわら。滋賀県野洲市)で、信長から南近江を任された柴田勝家と佐久間信盛らの軍勢と一戦を交えた。

だが、六角勢は2、3千人が討死する大敗を喫してしまう(『言継卿記』)。10月には家臣の三雲氏の居城である菩提寺城(滋賀県湖南市)に入り、11月には近江志賀で、正式に信長と和睦した。事実上の降伏だという。しかし、義賢・義治父子は、まだ諦めてはいなかった。

元亀3年(1572)、六角氏は再び信長と敵対し、翌元亀4年(1573)4月、義治が愛知郡の鯰江(なまずえ)城(滋賀県東近江市)に立て籠もった。

信長は義治を支援していた百済寺を焼き討ちにし、9月4日、柴田勝家に命じて鯰江城を攻めさせた。義治は父・義賢の籠もる石部城(滋賀県湖南市)へ逃れたという。

その後も義賢・義治父子はゲリラ戦を繰り返し、一向一揆と手を組み、天正2年(1574)ごろまで信長に抵抗し続けた。

しかし、石部城は天正2年4月に織田方の手に落ち、六角氏の近江国における拠点は消滅した。

 

六角父子の最期

本能寺の変で信長が世を去った後、義賢は豊臣秀吉に召し抱えられ、慶長3年(1598)3月14日、宇治にて、78歳で、この世を去った。

一方、義治は足利義昭に近侍した。信長に京を追われた義昭は、毛利氏を頼り、鞆(とも。広島県福山市)に滞在していたが、義堯(よしたか)と名を改めた義治も、重要なメンバーの一人として、付き従ったという。

のちに、義治は豊臣秀次の弓の師範に任じられた。秀次亡き後は、秀吉とその息子の秀頼に仕え、慶長17年(1612)に、京師賀茂にて69歳で、没している。

義賢も義治も、秀吉には御伽衆として仕えたという。御伽衆は主君に近侍し、話し相手を務める役目で、特殊な経験や豊富な知識を持ち、話術が巧みな者が選ばれた。父子にはそれに応えうる資質があったのだろう。

最後に、六角氏の子孫を、紹介したい。

義治には、男子がいなかった。そのため、大原氏の名跡を継いだ弟の大原高定の息子・定治が、義治の娘と結婚して養子となる。

定治は寛永7年(1630)に加賀藩に仕え、その家は江戸時代を通じて、加賀藩士であったという(村井祐樹『六角定頼 武門の棟梁、天下を平定す』)。

戦国時代を生き延び、天下人の御伽衆にも選ばれ、その子孫も存続した。名門大名から一介の武士になったとはいえ、義賢と義治は勝者といっていいのではないか。戦いには敗れても、諦めず抗い続けた者は勝者になれるのだと、義賢・義治父子の生き様は教えてくれる。

 

【鷹橋忍(たかはし・しのぶ】
昭和41年(1966)、神奈川県生まれ。洋の東西を問わず、古代史・中世史の文献について研究している。著書に『戦国武将の合戦術』『滅亡から読みとく日本史』などがある。2025年9月上旬、『小泉セツと夫・八雲』を上梓。

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