
備中高松城址
城攻めの名手として知られる豊臣秀吉は、「備中高松城の戦い」で大胆な奇策を用い、見事に城を攻略しました。城好きで知られる気象予報士の久保井朝美さんが、日本の風土と城の工夫、天気を味方にした合戦や武将など、日本全国37の城を題材に「天気×城」の新視点を紹介した書籍『城好き気象予報士とめぐる名城37 天気が変えた戦国・近世の城』より解説します。
※本稿は、久保井朝美著『城好き気象予報士とめぐる名城37 天気が変えた戦国・近世の城』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです
お城をめぐっていると、色々な守りの工夫を発見できます。城攻めは野戦と違って、相手が守りの工夫を凝らしたところへ攻めていかなければなりません。
かの豊臣秀吉は城攻めの名人で、難攻不落といわれたお城もあの手この手で落としました。例えば、小谷城を攻めたときは敵の浅井長政の家臣たちを数多く寝返らせる戦略を使い、浅井家の重臣や支城の城主も味方につけました。
鳥取城と三木城は、厳重な包囲網を敷いてお城に食糧が入らないようにすることで、相手を弱める兵糧攻めをしています。兵糧攻めをされた城内は人の肉を食べたのではないかというほど悲惨な状況になり、「鳥取城の渇(かつ)え殺し」「三木城の干し殺し(干殺し)」といわれています。
中でも秀吉のターニングポイントとなったのが、1582(天正10)年に行われた「備中高松城の戦い」です。数多ある戦国時代の戦の中でも、奇策を用いて勝利したことで知られています。
その奇策とは、現代の私たちにも馴染みがある季節現象を使ったものでした。
天下統一を目指す織田信長に命じられて、中国地方の毛利氏を攻めていた秀吉。
毛利氏の防衛ラインだったのが「境目七城」といわれた、岡山県にある7つのお城です。その要は主城の備中高松城で、城主は毛利家の家臣・清水宗治でした。備中高松城を守っていたのは3000~5000人といわれ、秀吉の軍勢は2万人(宇喜多軍を加えると総勢3万人)で攻めているので、圧倒的な兵力の差があります。数字だけ見ると、余裕で勝てそうです。
しかし、そう簡単にはいきませんでした。
備中高松城は、自然の要害を生かして守りを固めたお城です。
足守川に沿っていて、残りの三方は山に囲まれています。水が溜まりやすい低湿地にあり、お城の周りは水でじめじめした土地で、泥深い田んぼや沼の中に築城された「沼城」でした。
人や馬がまともに歩けるのは田んぼの間にある細い道だけで、それ以外はひどくぬかるんでいるため、大勢で一気に攻めることができません。泥沼に足を取られてノロノロと進軍していたら、お城を守る側から絶好の的になります。水に守られている備中高松城は少数でも守りやすい、難攻不落の城だったのです。
しかし、強みというのは、見方を変えたら弱点になります。秀吉は、軍師・黒田官兵衛(孝高)からの助言を受けて、「水に守られた城」を「水を使って落とす」作戦を立てました。
低湿地という利点を逆手にとった奇策が、水攻めです。備中高松城の周りに堤防を築き、水を溜めてお城を水没させる作戦を立てました。
秀吉は1582(天正10)年5月7日に陣を移して、8日から堤防を作り始めたと考えられています。新暦で5月末。中国地方の梅雨入りの平年日が6月6日頃なので、梅雨入り間近のタイミングです。
ここから急ピッチで工事を進め、たった12日間で堤防を完成させたといわれます。梅雨の雨と足守川からの流れこみで備中高松城は浸水し、毛利氏の援軍が来ても手が出せない孤立状態になりました。食料は補給できず、井戸水は濁り、衛生環境は悪化し、城内の士気は下がっていたと思われます。
それでも備中高松城の城主・清水宗治はお城に籠り、両者の睨み合いが続きます。
そんな膠着状態が動いたのは、6月2日。明智光秀の謀反によって織田信長が自刃した、本能寺の変が起こったのです。知らせを受けた秀吉は一刻も早く戦いを終わらせるために、急いで毛利氏と和睦を結ぼうとします。
6月4日、清水宗治は備中高松城内の人たちの命と引き換えに切腹し、戦いが終わりました。そして秀吉は主君・信長の仇を討つために京都へ向かう、中国大返しをしたのでした。ここから、秀吉の天下統一がスタートします。
水攻めという奇策が成功したのは、梅雨という季節現象のおかげです。仮に冬だったら、瀬戸内側の岡山県の降水量は少なく、うまくいかなかったかもしれません。「五月雨(さみだれ)」という言葉は、旧暦の5月頃が長雨となることを表し、戦国時代の人々も認識していました。毎年訪れる季節現象、雨(梅雨)の"サイン"を戦に生かす発想が、秀吉を天下人に導きました。

『城好き気象予報士とめぐる名城37 天気が変えた戦国・近世の城』(PHP研究所)
更新:08月31日 00:05