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鉄壁の雨対策が施された「高知城」 全国有数の雨量に耐える土佐漆喰

2025年08月21日 公開

久保井朝美(気象予報士)

高知城

水は、お城の大敵! 雨量の多いエリアでは、水に強い材料や独特の仕組みで、腐敗や倒壊を防いでいます。城好きで知られる気象予報士の久保井朝美さんが、日本の風土と城の工夫、天気を味方にした合戦や武将など、日本全国37の城を題材に「天気×城」の新視点を紹介した書籍『城好き気象予報士とめぐる名城37 天気が変えた戦国・近世の城』より、鉄壁の雨対策を誇った「高知城」について紹介します。

※本稿は、久保井朝美著『城好き気象予報士とめぐる名城37 天気が変えた戦国・近世の城』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです

 

【高知城】
重要文化財(天守含め15棟)
高知県高知市丸ノ内1-2-1
JR高知駅からバス(高知城前)下車

 

雨の日は多くないが、雨の量が多い

高知県は、全国的にみても雨の量が多い地域です。

北には四国山地があり、南は太平洋に面しています。海から流れこむ湿った空気が四国山地にぶつかり、上昇して雨雲が発達しやすい地形なのです。

特に山間部では年間降水量が3000ミリを超えるところが多く、東部の魚梁瀬(やなせ)は約4500ミリです。東京は約1600ミリなので、2〜3倍近くの雨が降るということになります。高知城がある高知は約2700ミリで、東京より1000ミリ程多いです。そして台風の通り道になることも多く、台風の上陸数は、鹿児島県に次いで全国2番目の多さです。

雨が多い環境との共生を感じられるのが「沈下橋(ちんかばし)」。沈下橋は洪水で橋が水没する(沈下する)ことを想定しているので、流木が引っかかるおそれがある手すりはありません。高知県の西部を流れる四万十川の景観に代表される、観光名所になっています。

高知県は降水量が多いものの、雨の日が特段多いわけではありません。一度に降る雨の量が多いのです。

 

土佐漆喰で、暴風雨をも撥ね返せ

高知城には、雨対策が随所に見られます。

まずは、壁に塗られている漆喰です。日本有数の降水量、さらには台風による暴風雨から城を守っているのは、並みの漆喰ではありません。

それは江戸時代に高知県で生まれたという「土佐漆喰」。一般的な漆喰は糊を使っていますが、土佐漆喰は糊を使っていないので水に強いのが、最大の特徴です。

なぜ糊を使わずに漆喰ができるのかというと、糊の代わりに発酵した藁と水を混ぜ、熟成させて粘性を生んでいるからです。糊を使っている漆喰よりも水に強く、雨に打たれても、剝がれたり黒ずんだりしにくいといわれています。

土佐漆喰がベージュのような色をしているのは、藁の繊維の色です。塗りたてはベージュがかっていますが、雨に濡れたり乾いたりすることで次第に色が薄くなり、1年ほど経つと、少し黄みがかった白色になります。

高知県は、漆喰のもとになる石灰石が多く採れることも、土佐漆喰が生まれた理由かもしれません。

 

多雨を受け流す、巨大な石樋

高知城

多雨地域においては、雨を撥ね返すだけでなく、受け流すことも必要です。

石垣に注目してみましょう。ひょこっと石垣から飛び出している部分があります。これは、城内の水(主に雨水)を排出するもので、「石樋(いしどい)」という排水設備です。排水が石垣に直接当たることを防ぐために、石垣の上部から突き出してつくられています。

ほかにも石樋が見られるお城はありますが、高知城は石樋が多い! 大きい! 下にいくほど排水量が増えるので石樋のサイズも大きく、人が乗ることができそうな巨大な石樋を見ることができます。

石樋から流れ出る水の受け皿になり、地面を保護するための「敷石」も大きく立派なので、チェックしてみてください。

高知城の天守は、全国に12しかない現存天守です。ほかにも、多くの門や塀などが現存しています。本丸御殿(懐徳館)と天守の両方が現存しているのは、全国で唯一です。

大雨に負けず立ち続けられているのは、鉄壁の雨対策が功を奏したのかもしれません。

 

出っ張りも、雨対策

高知城の雨対策は、まだあります。

建物の壁や塀に見られる出っ張りです。「長押型(なげしがた)水切り」といい、雨水が建物の中に浸入したり、下の石垣に流れこんだりするのを防いでいます。

少し出っ張らせることで、平面的な壁や塀に立体感を与えていて、私にはおしゃれなデザインのように見えました。雨対策が高知城の個性になっているともいえるのではないでしょうか。

 

水害で改名?

高知平野のほぼ中央にある標高約44メートルの大高坂山に、高知城は築かれました。大高坂山は、北に江ノ口川、南には鏡川があり、自然の要害を生かした立地です。

南北を川に挟まれていたので、「河中山城(こうちやまじょう)」といわれていましたが、城下はたびたび水害に見舞われます。水に関係が深い「河中」という名が良くないのではないかと考えられるようになり、読み方はそのままで、1610(慶長15)年に「高智山城」に漢字が変えられました。その後、時を経て「高知城」になったそうです。

 

高知城とは  

山内一豊が1601(慶長6)年に築城を開始して、10年目にほぼすべてが整いました。ただ、一豊が建てた天守は火事で焼けてしまい、現存するのは1749(寛延2)年に完成した天守です。

天守の最上階に廻縁(まわりえん)といわれる縁側と高欄(手すり)があって、外に出て一周できるのは、現存天守では高知城と犬山城だけです。ただ、廻縁は雨によって傷みやすいという欠点があります。

鉄壁の雨対策を誇る高知城に採用されているのは意外にも思えますが、天守はお城のシンボルなので、デザイン性の高さも大切にしたのかもしれません。

城好き気象予報士とめぐる名城37 天気が変えた戦国・近世の城
『城好き気象予報士とめぐる名城37 天気が変えた戦国・近世の城』(PHP研究所)

 

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