勝林寺にある田沼意次の墓(東京都豊島区)
大河ドラマ『べらぼう』で渡辺謙さんが演じることで、田沼意次に対する注目度が高まっている。
かつては「賄賂政治家」といったマイナスイメージで語られることもあった田沼だが、そのイメージだけでは、眞島秀和さん演じる将軍・徳川家治から信頼された理由は見えてこないだろう。ここでは、田沼意次が幕政のトップにのぼりつめ、権勢をふるうことができた理由を解き明かそう。
(※本稿は、安藤優一郎著『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです)
蔦屋重三郎は出版活動を通じて江戸の社会を活性化させていくが、当時の時代背景を踏まえずしてその活躍は語れない。進取の気性に富む田沼時代という時流に乗って新たな取り組みに挑戦し、出版界の寵児に躍り出たからである。
当時は、田沼意次が幕政を主導したことで田沼時代と呼ばれるが、意次とはどんな人物だったのか。まずは幕府のトップにのぼりつめるまでを紹介しよう。
享保4年(1719)、意次は旗本・田沼意行(もとゆき)の長男として江戸で生まれた。3年前の享保元年(1716)に、意行は紀州藩士から幕臣(旗本)に取り立てられたばかりだった。この年、御三家の1つ紀州藩の藩主・徳川吉宗が8代将軍の座に就いたことにより、幕臣団に編入されたのである。
意行は幕臣としても、紀州藩士としても新参者だった。田沼家は紀州藩に仕えていたが、元禄年間(1688〜1704年)に意行の父・義房が病のため退身してしまう。その後、宝永元年(1704)に意行が吉宗に召し出され、改めて紀州藩士となったからだ。
翌2年(1705)、兄・頼職の死を受けて吉宗が藩主の座に就くと、意行は、吉宗の側近くで警護にあたる小姓に取り立てられる。11年後の享保元年に、吉宗が将軍の座に就いて江戸城に入ると、今度は幕臣として召し出されて将軍の小姓となった。
将軍就任に伴い、吉宗は享保元年4月から同10年(1725)10月までの間に、計205名の紀州藩士を幕臣に加えた。なかでも、隠然たる政治力を持つ御側御用取次(おそばごようとりつぎ)などの御側衆、将軍の警護にあたる小姓衆、将軍の身の回りの世話をする小納戸衆(こなんどしゅう)といった側近団を、紀州藩主時代からの気心の知れた者たちで固めた。意行もその1人であった。
享保19年(1734)8月、意行は小納戸頭取に昇進する。小納戸は理髪や膳方など衣食住を世話する役であり、格式は小姓の方が小納戸よりも高かったが、その威を誇ったのは小納戸の方だった。小納戸の頭取ともなると将軍の御手許金を管理し、将軍が鷹狩りなどで城外に出る時は現場責任者を務めた。そんな小納戸頭取への抜擢には吉宗からの厚い信任が読み取れる。
その5カ月前の3月13日に、意行の長男・意次は次期将軍(世子)・家重の小姓に取り立てられた。家督相続前のことであり、これについても意行に対する厚い信任が背景にあった。意行は、意次が家重の信任を得て栄達することを夢見ただろう。だが、同じ年の12月18日に47歳で死去、その日を見ることなく、駒込の勝林寺に葬られている。
父・意行の死去に伴い、翌享保20年(1735)3月に意次は家督を相続する。父と同じく600石を家禄として与えられた。意次17歳の時である。
8歳年上にあたる家重の側近くに仕えた意次は、父と同じく主君から厚い信任を得る。小姓就任から3年ほど経った元文2年(1737)12月には、従五位下主殿頭(とのものかみ)に任じられ、父と同じ官位・官職にのぼる。田沼主殿頭意次の誕生であった。
延享2年(1745)9月、吉宗は将軍職を家重に譲り、本丸御殿から西丸御殿に移った。西丸御殿にいた家重は本丸御殿に移るが、意次は引き続き家重の小姓を務め、翌3年(1746)7月には小姓頭取に昇進する。
延享4年(1747)9月、意次は小姓組番頭格の御側御用取次見習に抜擢され、在職中は2000石が与えられることになった。吉宗が創設した「足高の制」に基づくものである。
この時代、幕臣にせよ藩士にせよ、100石とか100俵といった家禄が幕府や藩から保証されており、任命された役職をこなすための出費は家禄で賄うのが原則だった。だが、それでは家禄が少ない者は能力があっても、出費が大きい重職を務めることはできない。
そのため、享保8年(1723)に、吉宗は人材登用の一環として足高の制を採用する。役職別に役高を定め、家禄が役高を下回る場合、在職期間中は不足分を支給した。家禄が少ない者でも重職に抜擢しやすくしたのである。
御側御用取次の役高は事実上2000石だったようで、意次は家禄600石に1400石がプラス(足高)される。そして、寛延元年(1748)閏10月に御側御用取次見習のまま小姓組番頭に昇格したのを機に、改めて1400石が加増され、家禄が2000石に達した。
宝暦元年(1751)7月、見習が取れて御側御用取次に昇格する。宝暦5年(1755)9月には3000石が加増されて5000石の大身旗本となった。
見習ではあったものの、延享4年から務めた御側御用取次は吉宗が将軍の座に就いた時に新設された旗本の役職であり、将軍側近の筆頭格だった。それまでは大名の側用人が筆頭格であった。
側用人は、5代将軍・綱吉の時に新設された役職である。綱吉は館林徳川家という分家から将軍の座に就いたため、館林時代からの側近、牧野成貞と柳沢吉保を側用人に起用することで、将軍の権力を強化しようと目論む。
本来、側用人の職務は将軍の命令を老中に伝える一方で、老中からの政務に関する上申を将軍に取り次ぐことにあった。いわば伝達役に過ぎなかったが、側用人をして将軍権力の強化をはかりたいという綱吉の意向もあり、老中さえその威を恐れるような存在となっていく。
牧野と柳沢は将軍の権威を後ろ盾に政治力を発揮したのだ。いわゆる側用人政治のはじまりである。
次の6代将軍・家宣、7代将軍・家継の時は、家宣の寵臣・間部詮房が側用人として権力をふるうが、幕府内では側用人政治への反発が強かった。よって、吉宗はいったん側用人を廃止し、代わりに御側御用取次の役職を新設する。紀州藩主時代からの側近で幕臣に取り立てた有馬氏倫たちを任命したが、有馬たちは吉宗の信任を背景に絶大な政治力を発揮した。要するに、看板を変えただけだった。
御側御用取次は、老中からの上申を将軍に取り次ぐ際に、自分の意見を直接述べることがあった。この件は上申できないと取り次ぎを拒絶する場合さえあり、その実態は側用人と変わりはなかった。後に大名の側用人の役職は復活するが、常置ではなくなる。一方、旗本の御側御用取次は常置の役職だった。
意次は御側御用取次に任命されたことで、幕政に影響力を発揮しはじめる。宝暦8年(1758)9月には5000石を加増され、遠江国相良(さがら)藩10000石の大名となる。40歳の時だったが、大名に取り立てられたのには理由があった。
この頃、美濃郡上藩で起きた一揆が引き金となって、老中や若年寄、大目付、寺社奉行、勘定奉行を巻き込んだ疑獄事件が発覚し、幕府は大きく揺れていた。事態を重大視した9代将軍・家重は、同年7月に幕府の最高意思決定機関たる評定所での審理を命じ、9月3日には意次にその審理に加わるよう指示した。
評定所は3奉行(寺社・町・勘定奉行)や大目付・目付が構成メンバーであり、御側御用取次がメンバーに加わることは前例がなかった。それだけ、意次に対する信任が厚かったのである。意次は大名になったのと同時に評定所の審理に加わるよう命じられており、箔を付けさせるため家重が大名に取り立てたことは明らかだった。
家重の特命により意次が審理に加わった結果、事件に関係した老中・若年寄たちは改易、逼塞、罷免などの厳罰に処せられた。美濃郡上藩金森家も御家断絶となる。
この疑獄事件を手際よく処理したことで、意次の政治力に注目が集まる。その後も、家重の命を受けて評定所への審理に加わっており、幕府の実力者として認められていくのである。
その2年後にあたる宝暦10年(1760)5月、家重は大病のため将軍の座を嫡男・家治に譲った。これに伴い、家重の側近団は本丸御殿を去った。ところが、意次は本丸にとどまり、18歳年下の新将軍・家治の御側御用取次を務める。これは異例のことだった。
将軍が交代すると、将軍の側近団は入れ替わるのが通例である。綱吉の側用人として権勢をふるった柳沢吉保が新将軍・家宣の就任を機に辞職したのは典型的な事例だが、家治の代に入っても意次は御側御用取次を続けた。家治が家重の指示に従ったからであった。
家重は将軍の座を譲る際、家治にこう言ったという。「意次は正直で律儀者であるから、家治の時代になっても引き立てて召し使うように」。
意次の人となりについては、誠実さのほか、人心操縦の術に長けていたことが指摘されている(藤田覚『田沼意次』)。目上はもちろん、目下への気配りや気遣いも行き届いていたわけだ。行政能力が高かったのはいうまでもない。そうした長所が、家重から高く評価されたのである。
世子時代からの側近も御側御用取次などの側近に抜擢されたが、親孝行な家治は家重の教えを守って、意次にそのまま御側御用取次を務めさせた。その後も重用された意次は、明和4年(1767)7月には側用人へ昇進し、石高も20000石となった。
明和6年(1769)8月には、側用人から老中格に昇進する。幕政を取り仕切る老中並みの権限が与えられたが、注目すべきは側用人ではなくなったにも拘わらず、その職務を続けるよう命じられたことである。同9年(1772)1月には老中に昇格するが、側用人の職務も継続している。
老中でありながら、側用人を事実上兼任したのである。これこそが田沼が権勢をふるうことができた一番の理由であり、田沼時代が到来した背景でもあった。
江戸城のなかで、将軍が日常生活を送るとともに政務を執る空間は中奥だが、中奥に入れたのは側用人や御側御用取次、小姓衆、小納戸衆、将軍の脈を執る奥医師ぐらいであった。
そのため、老中が政務について将軍に上申する時は、中奥に出入りできる側用人たちを通して案件を取り次がせた。中奥で説明を受けた将軍は何らかの指示を側用人たちに与え、彼らを老中が詰める御用部屋に赴かせ、その意を伝言させた。
老中は政治向きについての決裁を仰ぐ際、直接将軍には拝謁できないシステムとなっていたのである。
しかし、老中と側用人を同一人物が務めれば、思いのままに政治を動かすことは可能であった。
老中に昇任した意次は、側用人としての職務も家治から許されることで、政治の全権を握った。まさに将軍から受けた絶大な信任の賜物だった。
【執筆者】
安藤優一郎(歴史家)
PROFILE 昭和40年(1965)、千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。同大学院 文学研究科博士後期課程満期退学(文学博士)。江戸をテーマとする執筆、講演活動を展開。 おもな著書に、『明治維新 隠された真実』『教科書には載っていない 維新直後の日本』など、近著に『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』がある。
更新:06月07日 00:05