
子どものころ、学校で食べた給食。みなさんはどんな思い出があるでしょうか。楽しみだった、苦手な食べ物が出てきて困った......。年代や地域によって、「定番メニュー」にも違いがありそうです。そんな給食ですが、日本で始まったのはいつなのでしょうか。また、時代とともに変遷するメニューには、どんな背景があるのでしょうか。昔懐かしいものから、最新事情まで、給食の歴史をひもといてみましょう。
小学校や中学校の給食の思い出は人によって違い、おいしくて楽しみだったという人もいれば、苦手なものを残すと怒られて苦痛だったという人もいるだろう。給食のメニューは時代ごとに大きく移り変わっており、世代によっても給食に対するイメージはかなり違う。
日本における給食の歴史は、短く見ても100年以上、長く見れば200年以上にもなる。そういう意味では、もはや日本の食文化のひとつといっても過言ではない。ここでは、そんな日本の給食の歴史を紹介していきたい。
【奈落一騎(ならくいっき/文筆業 )】 歴史、宗教、哲学、文芸などを対象に幅広く執筆。 著書に『江戸川乱歩語辞典』『競馬語辞典』『門外漢の仏教』『スーパー名馬伝説』、 グループSKIT名での共著に『元号でたどる日本史』などがある。
※本稿は、『歴史街道』2024年4月号より、内容を一部抜粋・編集したものです
日本で給食が始まった年については、給食関係の資料は、どれも明治22年(1889)だとしている。山形県鶴岡町(現・鶴岡市)の私立忠愛小学校で出された昼食が、日本初の学校給食だったというのが給食史の通説だ。そのメニューは、おにぎりと塩鮭、菜の漬物といった程度で、現代の私たちから見ると多少寂しいが、当時の食事としてはとくに質素なわけでもない。
ただ、この忠愛小学校よりも100年近く前、江戸後期の文化3年(1806)に、新島八重の兄である山本覚馬や、白虎隊の少年たちを輩出した会津藩の藩校・日新館で、15歳以上の生徒に昼食が出されたという記録が残されている。メニューは忠愛小学校とほとんど変わらないもので、これを日本で最初の給食だとする説もある。
日新館で昼食が提供された理由は、貧しい藩士の子弟も食事の心配をせずに勉学に集中してもらうためである。これは、学校給食というものの根底にある考え方だ。
19世紀から20世紀初頭にかけて、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカなど世界各国で学校給食が普及していったが、どの国でも貧困家庭の子どもの栄養状態を改善するというのが、制度を導入したときの最大の目的だった。先に名前を挙げた忠愛小学校も同様で、生活が苦しい家庭の子どもに無償で昼食を用意しようということで始まっている。
日本初の給食が日新館か忠愛小学校かは置いておくとして、明治時代後半に入ると、少しずつ全国に給食は広まっていった。だが、それらは各学校が慈善事業として独自に行なっていたもので、制度として定着していたわけではない。
自治体が本格的に取り組むようになったのは、大正8年(1919)からだ。この年、東京府は府直轄の小学校で学校給食を開始している。その4年後に政府が児童の栄養改善のために学校給食を奨励するようになり、各道府県にも給食が普及していった。
当時のメニューとして、ひき肉とサトイモなどの野菜の混ざった五色ごはんと、具沢山の栄養味噌汁が出されたという記録が残されている。
もっとも、この時点でも学校給食はまだ国の制度にはなっていない。国の政策として実施されるようになったのは、昭和7年(1932)からで、この年初めて国庫補助による貧困児童救済のための学校給食が全国的に実施された。以後、給食を提供する対象は貧困児童だけでなく、栄養不良児、身体虚弱児にも拡大。また、内容の充実が図られていった。
そんな昭和初期のメニューは、米飯にホウレン草のホワイト煮と鰆のつけ焼きなど、明治・大正期とは大きく様変わりしている。
しかし、昭和16年(1941)に太平洋戦争が勃発すると、次第に国内の食糧不足が深刻になり、給食の内容も劣化。翌年には、給食がすいとんの味噌汁だけという事態になってしまう。やがては、それすらも維持できなくなり、戦争末期になると給食は中止を余儀なくされた。
昭和20年(1945)に日本は終戦を迎えたが、依然、国内の食糧難は続いており、子どもたちの栄養状態の悪化も深刻だった。それを救ったのが、アメリカ在住の日系人である浅野七之助の尽力で実現した、日本向け援助物資のララ物資だ。
このララ物資には衣類や薬品なども含まれていたが、その多くは食料品で、これを基に日本の給食は再開される運びとなる。
昭和21年(1946)12月24日に物資の贈呈式が都内の小学校で行なわれ、これが現在も毎年1月24日から30日まで学校給食の意義や役割についての関心を高めるために実施されている「学校給食週間」の起源だ。
こうして子どもたちの飢餓は回避されることとなったが、当時の給食を食べた世代が口を揃えていうのが、給食に出た脱脂粉乳はまずかった、ということである。ララ物資のなかに大量にあった脱脂粉乳は、牛乳から脂肪分を取り除いて粉末状にしたもので、お湯で溶いて飲む。
スキムミルクとも呼ばれる脱脂粉乳は、栄養価が高いのに低カロリーであることから現代では美容食品として人気だが、そのころの日本人の口にあうものではなかった。しかも、食糧不足のなかで最低限の栄養を確保することが優先されたため、戦後再開された当初の給食はトマトシチューと脱脂粉乳のみといった奇妙な組み合わせのものも多かった。
戦後の給食において脱脂粉乳と並ぶ大きなトピックが、米食からパン食への転換だろう。昭和25年(1950)にアメリカから寄贈された小麦粉により、パンを主食とした完全給食が実施されることとなった。完全給食とは、主食(パンや米飯)、ミルク(牛乳や脱脂粉乳)、おかずの組み合わせによる、栄養バランスのいい給食のことである。
その結果、コッペパン、ミルク(脱脂粉乳)、コロッケ、ポタージュスープ、千切りキャベツといった、いま出されても違和感のない給食が出るようになった。余談だが、コッペパンのコッペとはフランス語の「切られた」が語源ともされているが、日本で独自に誕生したパンで、その名称も和製英語だ。
ところで、この米食からパン食への転換には戦勝国であるアメリカの意向が強く働いており、その裏には自国の余剰小麦を処分する狙いがあったという説がある。その真偽はともかく、将来的には日本を小麦の市場にしたいという意図がアメリカにあったことは確かだ。事実、給食を通してパンに馴染んだ戦後の日本では、米の消費量が減り続けた。
昭和29年(1954)に「学校給食法」が制定されたことで、地方自治体でも児童への完全給食が提供されるようになり、ようやく学校給食は全国共通のものとなった。
当時のメニューで子どもたちに人気だったのが、鯨の竜田揚げだ。低カロリーで高タンパクながら安価だった鯨肉は、給食に使いやすく、鯨肉を使ったメニューは昭和後期までポピュラーなものだった。
高度経済成長期を経て日本が豊かになった1960年代ごろから、脱脂粉乳が牛乳に変わり、またコッペパンだけだったパンは、揚げパンなどの調理パンも提供されるようになっていった。そして、昭和40年(1965)に、ソフト麺が登場する。
袋から出した麺をミートソースやあんかけなどと絡めて食べるこのソフト麺は、正式名称をソフト・スパゲティ式麺といい、登場以来、長いあいだ子どもたちに人気のメニューだった。だが、残念ながら近年は給食から姿を消しつつある。
ソフト麺が衰退した一因とも言われているのが、昭和51年(1976)から給食に導入されることになった米飯だ。先に紹介したように、戦後の日本の給食はアメリカの占領政策によってパン食となったが、米余りの解消と日本の食文化を教育する目的から、米飯が復活したのである。
これに伴い、カレーライスなどが人気の給食メニューとなった。ちなみに、米飯の提供は、当初は月に数回程度だったが、2000年代以降は週に3回程度に増えている。
年号が昭和から平成に変わったころから、給食のメニューはさらに多様化するようになった。イタリア料理、フランス料理といった国際色豊かなメニューや、各地域でその土地の郷土料理なども取れ入れられるようになったのである。また、地産地消の観点から、地元の食材を取り入れる学校も増えている。
例えば、沖縄県なら伝統的な琉球料理のひとつ「イナムドゥチ」という、豚肉を使った汁物、北海道なら「幻のたまねぎ」と呼ばれる「札幌黄」を使ったかき揚げ丼などが給食のメニューとなっているのだ。昭和に子ども時代を過ごした人にとっては信じられないだろう。
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──ここまで、駆け足で日本の給食の歴史を振り返ってきたが、給食が好きだった人も、嫌いだった人も、どこか懐かしさを覚えたのではないだろうか。
実際、昭和の給食を再現したメニューを出すホテルが人気を博すなど、給食とは大人のノスタルジーを刺激するものでもある。「同じ釜の飯を食う」という言葉があるが、子ども時代、何年間もクラスのみんなで同じ食事をするというのは、忘れがたい経験であることは間違いない。
最後にひとつ忘れてはいけないのが、近年、貧富の格差の拡大により、「給食だけが唯一のまともな食事」である子どもが増加しているということだ。先にも触れたように、子どもを飢えさせないためというのが、そもそも学校給食が始まった理由である。メニューは変わっても、給食の一番大切な役割は変わっていない。これからも、給食という制度は守り続けていく必要があるだろう。
更新:04月01日 00:05