2025年01月23日 公開
地名はさまざまな状況で命名され、それがいろいろな都合で変化し、追加され、統廃合され、あるいは復活し、またあるものは消えていきます――そう語る地図研究家の今尾恵介氏は、著書の『地名の魔力』で様々な事例を取り上げている。中には、町名として消えながらも、およそ30年後に、駅名の一部となって復活したものもあった。
※本稿は、今尾恵介著『地名の魔力』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです
超高層ビル「虎ノ門ヒルズ」(東京都港区)をくぐる環二通り。赤坂方面へ進めば外堀通りに合流するが、その辺りはわずかに小高くなっている。
これは江戸時代に築かれたダムの名残で、現在の特許庁から米国大使館を結ぶ道路の高みがわずかな痕跡だ。そこから赤坂見附にかけて江戸初期に飲料水をまかなった溜池があり、ダムはそのためのものである。
その後この溜池は玉川上水の開通で不要となり、承応年間(1652~55年)には、一部が埋め立てられた。明治初期の地図には、水面が少し残る湿地が描かれているにすぎない。
銀座通りに馬車鉄道が走り始めた1882(明治15)年にはダムも取り壊されたが、そこから溜池交差点の少し先までは、約半世紀前まで「溜池町」と称した。
溜池町は1888(明治21)年、その溜池の跡地に赤坂田町五~七丁目の一部を加えてできた町である。明治期には料理店や待合などが置かれて、東京有数の盛り場として賑わったという。
1905(明治38)年には都電の前身会社の一つ東京電気鉄道(外濠線)に溜池停留所も置かれ、関東大震災後の1925(大正14)年には、六本木方面への路線が分岐する交通の要衝となった。
戦後になって、道路が霞が関方面へ通じて十字路となるが、住居表示法に基づく町名の大々的な統廃合で1966(昭和41)年に赤坂一・二丁目の一部となり、田町や福吉町など由緒ある町名ともども、あっけなく消えてしまった。
しかし、外堀通りと六本木通りが交差する、大きな溜池交差点が知名度の高さを保ったためか、1997(平成9)年に東京メトロ南北線と銀座線に駅が新設された際には、「溜池山王」という名称が選ばれた。
「山王」は山王日枝神社の最寄りであることにちなむ。都電では溜池停留場の次が山王下だったので(1967年廃止)、地下鉄の駅名は両者を合併したものとも言えるだろう。
このあたりは首相官邸のある永田町の台地の真下に位置し、近現代史をまさに"砂かぶり"で見つめてきた場所である。1936(昭和11)年の雪の日に起きた二・二六事件の際、官邸にいた岡田啓介首相は難を逃れたが、このクーデター未遂事件で何人もの犠牲者が出ている。溜池町から赤坂見附、半蔵門に至る電車通りでは、兵士たちが反乱軍を包囲すべく陣を構えていた。
今は溜池交差点の上を通る首都高速道路も含め、おびただしい車が絶えず往来している。