『江戸名所図会』に描かれた鶴屋の店先図(国立国会図書館蔵)
2025年の大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の主人公は、写楽を世に送り出した江戸時代のメディア王・蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)である。彼はいかにして、一代にしてその地位を得たのだろうか。まずは、彼が登場する頃の江戸の出版界について、歴史家の安藤優一郎氏が解説しよう。
※本稿は、安藤優一郎著『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです
江戸の出版界の歩みを紐解くと、経済や文化面で江戸(関東)が上方(関西)に後れを取っていたことを背景に、江戸中期までは、上方の出版業が江戸の出版業を完全にリードしていた。一言でいうと、「西高東低」である。
江戸の人々は、京都や大坂など上方圏で製造された品を、何であれ「下りもの」と称して重んじた。吉原の遊興に欠かせない酒などはそのシンボルで、摂津国の灘などで醸造された酒は下り酒の代表格として、たいへんな人気を呼ぶ。上方の産業技術力が関東をはるかに上回ったからだ。酒に限らず、江戸では嗜好品の大半を上方産の下りものに依存していた。
出版物も西高東低の構図を受けて、上方依存の傾向が強かった。江戸の書物問屋のほとんどが、上方資本が設立した店舗、もしくは上方の本屋の出店だったことはその象徴である。
書物問屋は、上方で出版された本(下り本という)を売り捌く傍ら、専門書や学術書を出版する版元としての顔も持った。内容が堅めの出版物を扱う書物問屋は書物屋とも呼ばれた。その代表格といえば須原屋茂兵衛であり、紀伊国出身の須原屋は、ロングセラーだった武鑑(大名や旗本の名鑑)などの版権を獲得することで、江戸最大の書物問屋に成長する。
そして、江戸が百万都市となった江戸中期に入ると、巨大人口を背景とした需要の拡大が追い風となって、江戸の出版業は急成長を遂げる。ついには、上方での出版点数を凌駕するまでになった。
重三郎が江戸の出版界に華々しく登場する前、将軍の御膝元江戸では、泰平の世を謳歌する江戸っ子たちの文化的欲求を満たそうと、出版界が活況を呈したのである。
この急成長を牽引したのは、大衆向けの草双紙(絵入りの娯楽読み物)、浄瑠璃本、絵本、錦絵(浮世絵)などの一枚摺りの出版物の急増である。これらは江戸生まれの出版物、すなわち地物という意味で、「地本(じほん)」と呼ばれた。地本を取り扱った地本問屋(地本屋)も、書物問屋と同じく版元としての顔を持っていた。
書物問屋と比べると大衆的な出版物を扱う地本問屋としては、鶴屋喜右衛門が代表格である。元を正せば京都の書物問屋鶴屋の出店だった。後に独立し、江戸有数の地本問屋としての顔を併せ持つようになる。江戸のガイドブックである『江戸名所図会』には、鶴屋の店先が錦絵の販売所として描かれている。
江戸の出版界が活況を呈しはじめる一方で、幕府は、出版物が社会に及ぼす影響への懸念を次第に隠そうとしなくなる。そして、出版の統制に着手した。言論統制の開始である。
四代将軍・家綱の治世にあたる寛文年間(1661〜73年)に、町奉行が板木屋の甚四郎に対して、何であれ疑わしい内容の書物の出版を依頼された場合は、町奉行所に報告して指図を受けるよう申し渡している。幕府が見過ごせない内容の本が、市中に出回っていたことが窺える。
当時は板木を使った木版(もくはん)印刷で、板木を彫ることを生業とする板木屋が出版には欠かせない存在だった。この時、町奉行は板木屋仲間の結成も申し渡した。板木屋を通して出版の統制をはかろうという狙いが読み取れる。仲間の結成を求められた甚四郎は、江戸の板木屋を束ねる棟梁だったと推定されている。
しかし、この申し渡しが守られていないと町奉行はみた。そのため、幕府のことはもちろん、誰かが迷惑するような内容の本の出版などを依頼された場合は町奉行所に申し立て、その指図を受けるよう、板木屋仲間に加えて江戸の町にも触れた。寛文13年(1673)のことである。
寛文期の出版取締令を皮切りに同様の法令が繰り返し出されたが、特に幕府が厳しい目を向けたのは、時事ネタを取り上げる出版物だった。瓦版などはその象徴だ。次の五代将軍・綱吉の時代には悪名高い「生類憐みの令」が出され、まさに時事ネタとして取り上げるのに格好の材料となる。
時事問題が取り上げられると、為政者への論評に発展することは避けられなかった。つまりは政治批判につながる可能性が高い。その方が売れ筋になるからである。
批判の矛先は最終的には徳川家や将軍に向かう恐れがあった。それを放置しては将軍の権威も失墜するため、幕府は出版メディアへの統制をさらに強化する。将軍の権威を損なうネガティブな情報は徹底的に排除し、将軍の話題がタブー視される社会環境を整えることに躍起となった。
この時代、将軍はいうに及ばず、徳川家に関して出版物で取り上げることは、自分の身を危険に晒すことを意味した。幕末に江戸の木綿問屋の家に生まれ、近代日本の紡績業界に大きな足跡を残した鹿島萬兵衛は、徳川家に関する出版事情について、次のように回顧している。
旧幕時代の書物には、政治上のことは勿論、徳川家に係ることは些細のことでも記載せず、うつかりやると軽くて江戸構へ、少し重く取らるる時は遠島などといふ目に逢ふを恐れて、『江戸名所図会』その他の書物に記載てあるべきと思ふものもさらに記さず。 (鹿島萬兵衛『江戸の夕栄』)
政治上の事柄はもちろん、徳川家に関する事柄は些細なことであっても出版物には取り上げなかった。うっかり取り上げると、作者や版元は町奉行所から呼び出され、軽くて江戸からの追放処分。奉行所が少しでも重大案件とみなすと、遠島に処せられる可能性があった。よって、『江戸名所図会』をはじめ、徳川家に関する事柄を載せていても不思議ではない書物にも、それらは一切掲載されなかったという。
『江戸名所図会』とは、江戸および近郊の観光名所などを、挿絵と簡単な文章で紹介したガイドブックであった。江戸には徳川家ゆかりの観光名所が多く、それを売りにして、なかでも寺社は集客合戦に鎬を削った。そのため、こうした由緒は『江戸名所図会』で触れられても何の不思議もなかったが、幕府からの処罰を恐れて、その記述がなかったのである。
つまり、版元側が自主規制していたことがわかる。江戸の出版メディアが幕府の厳しい監視下に置かれていたことを示す、象徴的な事例であった。
幕府による出版統制の画期となったのは、大岡忠相が町奉行を務めた享保改革の時代である。享保7年(1722)11月に出された出版取締令では、次の5項目の厳守が掲げられた。
①新刊の書物では通説はともかく、異説などを加えてはいけない
②既刊の好色本は、風俗に宜しくないのでおいおい絶版とする
③他人の家系などに異説を唱え、新刊の書物として刊行してはいけない。子孫より訴えがあれば厳重に吟味する
④どんな書物でも、以後は作者と版元の実名を奥書に記すこと
⑤権現様(家康公)はもちろん、徳川家に関する書物を以後出版してはいけない。拠無い理由があれば、奉行所に届け出て指図を受けること
以後は、この出版取締令に基づいて新刊本の出版可否が判断されたが、幕府が直接判断したのではない。前年の享保6年8月に同業者組合として公認した江戸の書物問屋仲間に、その業務を委託して、先の5項目に違反していないかがチェックされた。江戸の出版界を牛耳る書物問屋をして、幕府の忌諱に触れる内容を出版・流通させないよう目論んだのである(今田洋三『江戸の本屋さん』)。
こうして、徳川家を取り上げた書物などは禁書扱いとされた。出版できない内容は写本という形で一般に流布したが、タブー視されたがゆえに、幕政や徳川家への関心がいやが上にも高まるという皮肉な結果に終わる。
しかし、享保改革の段階では、地本問屋に対して問屋仲間の結成を命じることはなかった。そのため、地本問屋が扱う出版物はいわば野放し状態となり、大衆向けの地本の出版は一層盛んとなる。そうしたなか、江戸の出版界に登場したのが重三郎なのである。
更新:11月21日 00:05