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海軍乙事件の全容 漂流する中将らが投棄した“機密文書”が、その後の戦局を左右した

2024年08月23日 公開

源田孝(元防衛大学校教授)

 

海軍が直面した4つの問題

古賀大将と連合艦隊司令部の遭難により、日本海軍は、4つの問題が同時に起きるという前例のない事態に直面した。

①古賀連合艦隊司令長官の遭難と指揮の継承

実戦部隊の最高指揮官である山本五十六大将の戦死に続き、古賀大将が遭難したことの重大性に驚愕した嶋田繁太郎海軍大臣は、緊急会議を開催した。議論は、連合艦隊司令長官の指揮権の移譲に集中し、速やかに後任の長官を指名する必要があった。

軍令承行令に従えば、後任は支那方面艦隊司令長官の近藤信竹大将であったが、連合艦隊の外の部隊であった。かくして、太平洋の戦場から遠いジャワ島スラバヤにいた南西方面艦隊司令長官・高須四郎大将が、次の連合艦隊司令長官が決まるまでの代行を命ぜられた。

 

②海軍中将という高級将校の捕虜とその処遇

福留中将は、海軍次官を議長とする糾明委員会で事情聴取された。その際、「軍規律の根底を揺るがす重大問題であるので軍法会議にかけるべき」という意見と「捕えたのはゲリラであり、正規軍と解釈すべきではない」という意見が拮抗した。また、「人材欠乏のおりでもあり、不問に付すのが妥当」という意見もあった。

処置に困った海軍は、軍令部次長・伊藤整一中将をマニラに派遣し、現地の陸・海軍の指揮官から事情聴取した。現地からは好意的な回答が得られたため、福留中将は、軍法会議にかけられず、責任は一切不問にすることになった。

さらに、福留中将が捕虜の辱めをうけながら生還したという疑惑を一掃するために栄転させることにし、第二航空艦隊司令長官に親補した。山本中佐も大佐に昇任した後に第二一駆逐隊司令に栄転した。

 

③連合艦隊司令部の再建

連合艦隊司令部の要員は、明治以来、伝統的に海軍各学校の優等卒業生をあてていた。そのため、候補者は、すでに重職についている者が多く、人事異動には一定の調整期間が必要であった。

また、再建に際しては、広域化、高速化した近代海戦に対応できるよう、抜本的に編成を見直すべき、との意見も多かった。

 

④機密書類の紛失と対処

福留中将は、第三南遣艦隊の参謀に「機密書類を納めた書類ケースは、現地人に奪われたが、彼ら(ゲリラ)は(機密文書に)ほとんど関心をいだいていなかった」と証言した。

そして海軍首脳にも、「ゲリラ指揮官のクッシング中佐をはじめ、ゲリラの取り扱いは丁寧で、秘密図書等に対する尋問も全くなかった」と証言した。

海軍首脳は、福留中将の証言を受け入れ、機密文書はゲリラに奪われたと推定されるが、ゲリラからアメリカ軍に渡っていない、との最終結論を出した。

結果として、海軍は福留中将と山本中佐を処罰せず、「Z作戦計画」や暗号書の変更も行なわなかった。5月3日に豊田副武大将が新連合艦隊司令長官に親補され、「Z作戦計画」を修正した「あ号作戦計画」が策定された。

情報の世界では、「漏洩した疑いのある情報は、漏洩したものとみなす」という鉄則がある。海軍首脳は、秘密漏洩については、希望的観測に終始して判断を誤った。他の3つの問題に忙殺されて、秘密漏洩の重大性を見落としてしまったのである。

 

発見された機密文書

喪失したZ作戦計画書は、戦後、全くの偶然から日本で発見された。英語が達者であった千早正隆元海軍中佐は、昭和21年(1946)から連合軍最高司令部情報部戦史課に勤務し、アメリカ軍の戦史編纂に参加していた。

ある日、千早氏は、書類の束の中から偶然にZ作戦計画書の原本を発見した。連合艦隊司令部の航空参謀の経験があった千早氏は、福留中将一行がセブ島で秘密文書を喪失したことは知っていた。しかし文書がアメリカ側に渡っているとは想像もしていなかっただけに、驚きは大きかった。千早氏は、自らが発見した文書を手にして「本当に涙が出るよ」と嘆いたという。

子細にみれば、文書には水に浸かった痕跡があり、この文書が海上で押収されたことを示していた。表紙には、分母に三〇、分子に四または五の番号が付されていた。三〇は作成部数であり、四または五は所有者の番号を示す。千早氏は、「諸条件を考えて、それが作戦参謀・山本祐二中佐所有のものとするのが常識でしょう」と述べている。

山本中佐は、海軍兵学校を二番で卒業したエリートであった。岳父の豊田貞次郎海軍大将は、「海軍乙事件」後の山本中佐は、いつも死に場所を探しているように見えた、と証言している。山本中佐は、第二艦隊の先任参謀として沖縄戦に参加し、戦死している。

ことの経緯は、次のとおりであった。福留中将と山本中佐は、現地人の船に救助される際、書類鞄を海中に投棄したが、漁夫の一人が沈んでしまう前に書類鞄を拾いあげていた。

2つの鞄は、現地人からゲリラに渡されたが、ゲリラ隊長のマルセリーノ・エレディアノ大尉は、実は日本の大学に留学した経験があり、書類についていた赤の丸秘印から、一目でそれが重要書類であることがわかった。

エレディアノ大尉から報告を受けたクッシング中佐は、オーストラリアのブリスベーンにある連合軍司令部に、「高級軍人の捕虜と重要書類の入った鞄を捕獲した」と報告した。そして、鞄に入っていたのが重要書類だと気づいていないようにみせるため、鞄についての尋問はしなかった。

クッシング中佐からの報告を受けた連合軍司令部は沸き立ち、直ちに捕虜と機密文書をブリスベーンまで移送するよう命じた。しかし、すでに日本軍に包囲されていたクッシング中佐は、機密文書は送付するが、捕虜の移送は断念し、日本軍との取引に応じた。

機密文書は、潜水艦「ハッド」でニューギニアに運ばれ、そこから輸送機でブリスベーンに移送された。

連合軍司令部翻訳通訳課では、課長のシドニー・マシビア大佐が日系二世を率いて、日本軍から押収した文書類の翻訳や日本軍捕虜の事情聴取に従事していた。

「機密・連合艦隊命令作第七三号、連合艦隊命令一九・三・八」と表記されたZ作戦計画書の翻訳作業を命ぜられたのは、ヨシカズ・ヤマダ三等技術軍曹とジョージ・ヤマシロ二等軍曹であった。二人は、日本語を解する三人の白人将校と11日間かけて22頁の翻訳書を完成させた。

翻訳書は、20部印刷され、2部がハワイの太平洋艦隊司令部に送付された。アメリカ海軍は、この翻訳書から日本海軍のマリアナ防衛作戦の内容を把握し、そして、1カ月かけてマリアナ攻撃作戦計画「フォーリジャー(略奪)」を策定した。

それでは、福留中将が携行していた機密文書は、どうなったのであろうか。現地の第三南遣艦隊司令部は、秘密文書がゲリラの手に落ちたことは確実と判断し、セブ島のゲリラが潜んでいる地域に拾得物の返還を求めるビラを配布するとともに、2週間にわたり爆撃を加えていた。さらに、潜水要員を派遣して秘密文書の回収を試みている。

このような日本軍の動きを察知した連合軍情報部は、秘密文書と鞄をわざわざ潜水艦でセブ島まで運び、押収した海域に流した。日本側がこの鞄を回収したかについては確認されていない。

 

その後の戦局への影響

Z作戦計画書と暗号書の漏洩は、日本海軍の事後の作戦に大きな影響を及ぼした。

「Z作戦計画」を知る立場にいた吉田俊雄元海軍中佐は、「その完成度の高い内容から、(Z作戦計画で)日本海軍の作戦構想は十分推定できる」と発言している。

アメリカ海軍は、翻訳文書から日本海軍の作戦構想だけではなく、マリアナ作戦に参加する航空機数、艦艇数、兵力、配置、指揮官の氏名まで突き止めた。マリアナを攻略する第五艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス中将は、日本海軍の航空母艦は9隻で作戦機は約460機であることを知っていた。

日本海軍は、「Z作戦計画」を修正した「あ号作戦計画」を新たに策定してマリアナ作戦に臨んだが、マリアナ沖海戦では、第一航空艦隊の空母「大鳳」、「翔鶴」、「飛鷹」が撃沈され、艦載機の大部分が喪失した。苦心の末、ようやく造成した日本海軍の機動部隊は、大きな被害を被った。

日本海軍の敗退により、マリアナ諸島は約20日の戦闘で失陥し、日本の絶対国防圏の一角が崩れた。ついで、マリアナ諸島に航空基地が整備されてB‐29が展開し、対日戦略爆撃が開始された。続くレイテ沖海戦でも「Z作戦計画」を事前に知っていたことが、アメリカ軍の勝利に大きく影響した。

その後の経緯を踏まえ、戦後、マシビア大佐は、「日本海軍の秘密文書を入手したことにより、戦争終結を1年以上早めることができた」と述懐している。

 

【源田孝】
元防衛大学校教授。昭和26年(1951)生まれ。防衛大学校航空工学科卒業。元空将補。幹部学校指揮幕僚課程、同幹部高級課程修了。早稲田大学大学院公共経営研究科公共経営修士(専門職)。軍事史学会監事。戦略研究学会監事。著書に『アメリカ空軍の歴史と戦略』『ノモンハン航空戦全史』などがある。

 

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