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海軍乙事件の全容 漂流する中将らが投棄した“機密文書”が、その後の戦局を左右した

2024年08月23日 公開

源田孝(元防衛大学校教授)

海軍乙事件

マリアナ沖海戦の3カ月前、日本海軍はその後の作戦に大きな影響を及ぼすミスを犯していた。昭和19年(1944)3月、機密文書を紛失したのである。世にいう「海軍乙事件」だが、日本海軍はその対処においても、過誤を重ねてしまう。そこから見える日本海軍の問題点に迫る。

※本稿は、『歴史街道』2024年8月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

劣勢となった日本海軍

太平洋戦争での日本の敗北の原因を「国力の差」、「物量の差」、「科学技術の差」とみることが多い。隠れた原因として「情報戦での敗北」があるが、その一例として「海軍乙事件」が挙げられる。

「海軍乙事件」とは、連合艦隊司令長官古賀峯一大将の遭難事件をいい、それに付随して秘密漏洩事件が生起している。

昭和18年(1943)4月21日、戦死した山本五十六大将の後任として連合艦隊司令長官に親補された古賀峯一大将は、トラック島の戦艦「武蔵」に将旗をあげ、参謀長に福留繁中将を起用した。福留中将は、海軍大学校甲種学生を首席で卒業した秀才であり、戦略・戦術の大家とみなされ、太平洋戦争では文字通り日本海軍の作戦を担ってきた。

昭和18年9月30日、日本政府は防衛線をマリアナ─カロリン─西部ニューギニアの線まで後退させ、これを「絶対国防圏」とすることを決定した。トラック島は、「絶対国防圏」の拠点であった。

昭和19年(1944)2月7日、アメリカ海軍のトラック島襲撃は必至と判断した古賀長官は、連合艦隊の艦艇にトラック島からの後退を命じる。同時に、連合艦隊司令部をトラック島の西方約2000キロメートルにある、内南洋の拠点パラオ島に移動させることにした。

2月17日、トラック島がアメリカ海軍機動部隊による大規模の空襲を受けた。この情勢を受けて、連合艦隊司令部は、「Z作戦計画」を起案した。

「Z作戦計画」は、内南洋方面にアメリカ軍の有力部隊が侵攻した場合の迎撃作戦である。積極的な作戦思想の持主である古賀長官の強い意向を受けており、計画書には作戦方針、参加兵力、部隊の編成と配備計画、戦闘要領が記されていた。「Z作戦計画」は、福留中将の見識が反映された、漏れの無い、緻密な計画であり、3月8日に発令された。

 

パラオ空襲と連合艦隊司令部の退避

昭和19年3月30日、アメリカ海軍機動部隊は、のべ456機の艦載機でパラオ島を空襲した。

空襲による基地機能の喪失とアメリカ軍が上陸するとの懸念から、連合艦隊司令部は、パラオ島からフィリピンのミンダナオ島ダバオに一時後退し、最終的にサイパン島に移動することを決めた。

緊急を要するため、移動は艦艇ではなく、4000浬の航続力を有する二式飛行艇を使用することにした。搭乗区分は、一番機に古賀大将、上野権太機関大佐、首席参謀・柳沢蔵之介大佐、航空参謀・内藤雄中佐、航海参謀・大槻俊一中佐、副官・山口肇中佐、柿原饒軍医少佐、暗号長・新宮等大尉であった。

二番機に、参謀長・福留繁中将、大久保信軍医大佐、宮本正光主計大佐、奥本善行機関大佐、作戦参謀・山本祐二中佐、水雷参謀・小池伊逸中佐、気象参謀・島村信政中佐、航空参謀・小牧一郎少佐が搭乗した。福留中将と山本中佐は、Z作戦計画書、暗号書、艦隊司令部信号書を携行していた。

二機の二式飛行艇は、3月31日午後5時にサイパン島を離水し、午後9時にパラオ島に到着した。

待機していた司令部要員は、それぞれ二式飛行艇に搭乗した。計画では、パラオ島で給油する予定であったが、空襲警報が発令されたため、急遽出発することになり、無給油のまま二機は離水した。

不運なことに、二番機の副操縦手は、慌てていたために、離陸する際にピトー管の覆いをとることを忘れていた。空襲警報は、飛来した二式飛行艇を混乱の中で敵機と誤認したことによる誤報であった。

一番機の機長は、パラオ─ダバオ間の航路を熟知していたが、二番機の機長は、全くの不案内であったため、一番機の誘導で飛行する予定であった。

しかし、離水直後に巨大な積乱雲に行く手を阻まれ、二番機は一番機を見失った。こうして、二番機は、燃料に余裕がなく、しかも航路に不案内なまま夜間にダバオに向かった。やがて前方に黒雲が発生し、二番機は、密雲に突入した。機体は激しい雨にうたれ、大きく動揺を始めた。機長は、機体を上昇させて北方に向けて飛行した。

4月1日午前零時30分、二番機はようやく密雲を抜けた。天測した結果、機体は推測位置から160浬北を飛行していた。飛行経路が航路から北方へ逸脱していることを確認した福留中将は、ルソン島のマニラへ向かうよう指示した。しかし、機長が残燃料を確認したところ、30分の飛行時間分しか残っていなかったため、最寄りのセブ島に向かうことにした。

二番機は、セブ島に接近したが、闇夜で海面の視認が困難だったので、機長は強行着水を決心した。ピトー管の覆いがついたままであったので、正確な気速が得られなかった。午前3時頃、二番機は高度50メートルから墜落して海面に激突し、大破炎上した。

 

機密文書の紛失

海に投げ出された13名のうち、泳力があった1名は岸に泳ぎ着き、セブ島の海軍部隊と連絡をとることに成功したが、3名は力尽きて亡くなった。

福留中将と山本中佐を含む9名は、7時間ほど泳いだ後に現地人の船に救助された。この時、福留中将と山本中佐は、機密書類が入った鞄を海中に投棄している。

その後、一行は現地人により、米匪軍と呼んでいるゲリラに引き渡された。ゲリラは、ゲリラ隊長であるジェームス・クッシング中佐の指揮所まで一行を連行した。

丁度この時、セブ島では、独立混成第三一旅団第一七三大隊長の大西精一中佐がゲリラ討伐作戦を展開していた。大西中佐は、クッシング中佐の指揮所を探り当て、4月10日に完全に包囲して一斉攻撃のチャンスを狙っていた。

日本軍に包囲されたことを知ったクッシング中佐は、部下と家族の身を守るため、連合軍司令部の「捕獲した捕虜は、後送せよ」という指示を無視して、大西中佐と取引することにした。

ここで、大西中佐は、クッシング中佐が日本海軍の高級将校を捕虜にしていることを初めて知った。大西中佐は、熟慮の末、クッシング中佐の申し出を受け入れて、捕虜を救出することにした。こうして福留中将一行は、無事救出され、セブ市の水交社へ移送された。

福留中将救出の報告は、直ちに軍令部に打電された。報告を受けた軍令部は、福留中将と山本中佐に帰国を命じた。二人は、マニラ経由で帰国し、4月18日に海軍大臣官邸に出頭した。古賀大将が搭乗していた一番機の消息は、全く不明であり、遭難は確実となった。

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