写真:七里の渡し近くにある「伊勢国一の鳥居」
徳川家康を祖父にもち、数えにして僅か7歳で豊臣秀頼のもとに輿入れした千姫。大坂の陣後、彼女は江戸にもどるが、一人の武将との出会いを機に、人生を再び強く歩み始める。桑名市、姫路市、常総市、文京区、岡山市といったゆかりの地から、そのドラマチックな生涯をたどってみよう。まずは、桑名市に向かった。
桑名は、東海道42番目の宿場だ。隣の宮宿(熱田)との間を、海路で結んでいる。東海道の中ではここだけだ。その距離から桑名では「七里(しちり)の渡し」という名がついている。
慶長20年(1615)、大坂夏の陣において、豊臣秀頼に嫁いでいた千姫は、落城とともに城を出て、祖父・徳川家康の計らいで江戸へと戻ることになった。大坂から江戸まで、東海道を進んだ千姫一行も「七里の渡し」で船に乗る。
現在のJR・近鉄桑名駅から八間通りをすすみ、南北を通る東海道を北に折れると、大きな鳥居が目に入る。揖斐川近くに立つ「伊勢国一の鳥居」で、伊勢への玄関口である。ここに七里の渡しがあった。今も滔々と流れる揖斐川の川風が心地よい。
千姫の船を舵取りしたのが、桑名を本拠とする本多忠政の子・忠刻(ただとき)であった。このとき千姫19歳、忠刻20歳。その凜々しい姿に千姫が惹かれた、とも語られ、のち二人は結婚するのだが、実際はどうだったのだろうか。
「実は、この二人の結婚には忠刻の母である熊姫(ゆうひめ)が関与していると思われます」
そう話すのは、桑名市博物館歴史専門官の大塚由良美さんだ。
「徳川家の公式文書でもある『徳川実紀』には、本多忠政の妻・熊姫が家康の病気見舞いに駿府を訪れ、千姫を忠刻の妻にと願い出たとあります」
熊姫は家康の子・信康の娘であり、同じく家康の子の秀忠の娘・千姫とは従姉妹となる。元和2年(1616)、千姫は忠刻のもとへ嫁ぐこととなった。新居は桑名城の三の丸御殿である。
「初代本多忠勝の時代には、敷地はあったものの、まだ三の丸はありませんでした。千姫降嫁のさいに、忠政が建造したとされています。三の丸を見ると、執務を行なう表と、千姫と忠刻の住まいである奥座敷に分かれており、奥は庭が7つも配置されたつくりになっていました。豊臣家滅亡という乱世の過酷さを味わった千姫の心を癒すかのようなつくりだったのでしょう」
桑名城は現在、九華公園となり、人々の憩いの場所であるが、残された石垣や堀に往時の片鱗を見ることができる。
写真:祖父を想って建立した桑名東照宮
七里の渡しから八間通りに戻って、しばらく駅方向に進むと、左手に桑名宗社(春日神社)が鎮座する。ここは桑名の総鎮守として、約1900年の歴史を誇っている。
千姫が桑名へ入る直前、祖父の家康が没した。元和3年(1617)、千姫は家康の座像を桑名宗社に奉納し、東照宮を勧請する。
「同じ年に、千姫は本多家の姫路移封によって桑名を離れてしまいます。わずかな期間ではありましたが、桑名ではおだやかな日々をおくったのではないでしょうか。心にゆとりができたからこそ、祖父を祀って祈ろうという信心の気持ちも生まれてきたのだと思います」
桑名宗社の宮司・不破義人さんは語る。千姫の関与した社は、元禄期に焼失したが、明治になって再び桑名宗社の境内社として建立された。
「この神社からまっすぐ歩くと、桑名城に着きます。この周辺はお寺は多いですが、神社はここだけですから、城の守護として考えられていたのでしょうね」
境内には、令和4年(2022)にオープンしたカフェレストランがあり、アフタヌーンティーも楽しめるので、女性客に人気のようだ。
千姫も気心の知れた女中たちと、お茶を楽しみながら、のんびりとした時間を過ごしていたのかもしれない──。そんな想像が膨らむ桑名の町だった。
写真:千姫の描かれた御朱印
更新:11月21日 00:05