紫式部の越前での暮らしぶりは、あまりはっきりとはわかっていません。ただ『紫式部集』には、国府で詠まれた歌が3つ残されています。そのうちの1つに、
「暦に『初雪降る』と書きつけたる日、目に近き日野岳といふ山の雪いと深く見やらるれば ここにかく 日野の杉むら埋む雪 小塩の松に今日やまがへる」
というものがあります。
越前で暮らし始めて、初雪が降った日のことです。日野山は現在も越前市内からよく見え、独特の美しい山容を誇ります。式部も国府の館から眺めて、親しんでいたのでしょう。
(ここで日野山の杉林に雪が積もっている。今日は、都の小塩山の松に散り乱れているだろうか)
杉と松では違いますし、雪も越前のほうが深いので、都の暮らしを懐かしむというか、恋しい気持ちはあったのかもしれません。国府にいる紫式部に、求婚者の藤原宣孝から手紙が届いたこともありました。
「春は解くるものといかで知らせたてまつらむ」(春は雪が解ける季節。あなたの心も同時に解ける時が来たとぜひ知ってほしい)
それに対して式部は、
「春なれど 白嶺のみゆきいやつもり 解くべきほどの いつとなきかな」(春だからといって、こちらの白山の雪のようにいつ解けるかなんてわからない)
と返しています。一見、つれなく見えるかもしれませんが、当時は返事を出すこと自体、関心があるということになります。
式部はこのあたりで結婚を前向きに考え始めたのでしょう。そして1年に及ぶ越前での暮らしに終止符を打ち、父の任期明けを待たずに、先に都へ帰ることとなります。
(「紫式部図」(東京国立博物館蔵、出典:ColBase)
都に戻った式部は、長徳4年(998)、宣孝と結婚したのでしょう。しかし、結婚生活は長くは続かず、わずか3年後の長保3年(1001)、宣孝は亡くなります。その哀しみを紛らわすかのように、式部は『源氏物語』の執筆を開始したはずです。
物語は評価され、ついには宮中に出仕。一条天皇の中宮・彰子の家庭教師的なポジションに就くことになりました。出仕後も『源氏物語』の執筆は続けています。
1年という短い期間ではありますが、越前での暮らしは、式部にさまざまな影響を与えたと思われます。たとえば式部は、越前からの帰り道、琵琶湖の舟から白い雪を頂いた伊吹山をみて、次のような歌を詠んでいます。
「名に高き越の白山ゆきなれて 伊吹の嶽をなにとこそ見ね」
私は評判の高い越の国の白山の雪を見慣れてしまったから、伊吹山がどんなに白くてもたいしたものとは思わない、という内容です。
白山とは、越前から見える加賀の白山のことで、最高の雪山を見たことで、式部は物事を判断する物差しを得たことでしょう。だからこそ、伊吹山をたいしたことがないと言いきれたのです。
これ以外にも、都にはない暮らしと環境に触れることで、式部は考えを深めることができたはずです。都の貴族社会にいては出会うことのなかった人々との交流、父から耳にしたであろう宋人の話、広大な敦賀の海や琵琶湖を目の当たりにしたこと......。
その一つひとつが式部の糧になったことはいうまでもなく、『源氏物語』を生み出す原動力となったことは間違いありません。
余談ですが、平安時代の女流文学の担い手の多くは、紫式部と同じように、家族の赴任先に同行した経験の持ち主です。都の外での暮らしに触れたことは、やはり何がしかの意味を持っていたのでしょう。
『源氏物語』そのものに、越前での暮らしを探ることは難しいですが、たとえば、「浮舟」の巻では、宇治に住む浮舟に対し、都に帰らなければならない母親が「武生の国府にうつろひたまふとも、忍びては参り来なむを」と語っています。
たとえ武生の国府のように遠いところでも、忍んで会いにいきます、の意味で、この「武生の国府」は平安時代の古典歌曲からの引用で、当時、誰もが知っている歌でした。
しかし、武生で暮らしたことのある式部にとっては、実感を伴った「遠い場所」です。そのために、物語の表現が借り物ではなく、血の通った言葉となったといえるでしょう。
物語をつくるうえで、想像力は大事なことです。そこに経験が裏付けされると、さらに真実味を増し、人々に感銘を与えられるようになります。だからこそ『源氏物語』は、今もなお読み継がれているのです。
越前での1年は、紫式部に作家としての資質に広がりをもたらした、貴重な時間だったに違いありません。
更新:11月21日 00:05