富太郎の学位取得は、彼自身が積極的に望んだものではなかった。
これまでも、「理学博士にするので、論文を提出するように」と何度も勧められていた。
彼の後輩や教え子にも学位を得ている者が大勢いたし、経済的困窮を知る友人たちからは、「学位があれば、待遇も改善されるのでは」とアドバイスされることもあった。それでも、権威を嫌う富太郎は、意地を張って断り続けていた。
「学者に必要なのは学問のみ。称号はまったく必要ない。学位の有無など問題ではない」――これが、何の肩書きももたないまま研究を続けてきた富太郎の矜持であり、意地であった。
そんな富太郎の学位取得のために尽力したのが、親友の池野成一郎と、東京帝国大学農学部助教授の三宅驥一(1876~1964)である。
三宅は、コンブの精子発見、アサガオの遺伝学的研究などで知られる植物学者だ。この当時は助教授であったが、昭和7年(1932)に教授に就任している。
三宅と池野は、「学界の順序からいって、牧野富太郎が学位を取らないと、後輩が迷惑する」などと富太郎を説得し、ついに彼も折れた。
『植物学雑誌』に欧文で連載していた「日本植物考察」を本論文とする、学位請求のための論文を提出し、昭和2年4月16日付で、理学博士の学位を授与された。友人たちも壽衛も喜び、祝福した。学位の授与後、12円ほど昇給もしている。
しかし、富太郎は「学位を押しつけられ、すっかり平凡になってしまったことを残念に思っている」と自叙伝に綴っている。
確かに富太郎にとって、肩書きは必要のないものだったのかもしれない。だが、自分以外の大切な人のために、心のどこかでは望んでいたのではないだろうか。
自叙伝には、博士号を受けたときに作った歌として、
苦しい思い今日の今まで通した意地も 捨てにゃならない血の涙
鼻糞と同じ太さの十二円 これが偉勲のしるしなりけり
などに交じって、
たとえ学問のためとはいえ、両親のなきあと酒造る父祖の
業をほしいまゝに廃めて、その産を使い果たせし我なれば
早く別れてあの世に在います 父母におわびのよいみやげ
という歌が記載されている。
幼いころに死に別れた父母も、富太郎の学位取得を喜んでいるに違いない。
理学博士となった昭和2年の11月、富太郎は札幌博物学会が主催する、北海道帝国大学で行なわれた「マキシモヴィッチ生誕100年祭」に出席し、講演した。
この帰り道、彼は盛岡と仙台で植物採集を行なった。そのとき、仙台で採集したササの一種は新種であることがわかった。このササは、富太郎にとって一生忘れられないものとなる。
一方、壽衛は東大泉の家に、ゆくゆくは立派な植物博品館を建て、牧野植物園を作りたいと張り切っていた。だがこのころ、体の異変が明らかになり、東京帝国大学医学部の青山外科へ入院している。
富太郎は病原不明と称しているが、悪性の腫瘍であったとみられている。
富太郎の六女・玉代によれば、「入院してもお金が続かず、徹底的な治療ができなかった」という(『植物と自然』「わが母 壽衛子を語る」1981年臨時増刊号)。
入院費が払えず、幾度も入退院を繰り返すうちに、壽衛は手遅れとなったようである。そして、翌昭和3年2月23日、入院先の青山外科で、富太郎や子どもたちに見守られ、この世を去った。
苦難の末に自分たちの家を持ち、富太郎も理学博士となった。これからは少しは落ち着いた日々が送れるかもしれない。そんな矢先の死であった。
高知新聞社編『MAKINO』によれば富太郎は植物分類学において、最も重要な行為は植物の命名で、私情を挟んではならないと考えていた。
そのため彼はドイツの医者で博物学者のフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(1796〜1866)が、自分の愛人の名を日本のアジサイに命名したとして、学会誌で激しく非難している。
だが、富太郎は、仙台で見つけた新種のササに、亡き妻の名を冠して「スエコザサ」の和名と、「Sasa Suwekoana Makino(現在はSasaella suwekoana Makino)」の学名を与えて、発表した。
富太郎は愛する妻の名を、自分が発見したササとともに、永遠に残したのだった。このとき彼は、愛する人の名をアジサイにつけたシーボルトの気持ちが、理解できたのかもしれない。
壽衛は、東京都台東区谷中の天王寺墓地に葬られた。富太郎は墓碑として、「家守りし妻の恵みや我が学び 世の中のあらむかぎりやすゑ子笹」の歌を、とこしえの感謝を込めて、深く深く刻んだ。
そして、スエコザサを家の庭に移植し、「この地に標本館と植物園を作る」という亡き妻の願いが叶う日を信じた。
壽衛のいない富太郎の人生がはじまる。
更新:11月24日 00:05