ところで、次に触れるとおり、七将が三成を武力でもって襲撃したというのは、誤りであると指摘されている。
近年、石田三成襲撃事件は、白峰旬氏、光成準治氏らによって、詳しく検討されている。
襲撃事件の際、実は浅野幸長も伏見に軍勢を率いてやって来ていた。家康は幸長を歓迎し、指示を積極的に与えている。また、加藤清正、蜂須賀家政だけではなく、黒田孝高が伏見に来ていたことも明らかになっている。彼らは、文禄・慶長の役において、三成に遺恨を持つ面々だったといえる。
黒田孝高・長政父子が家康与党として行動していたのは、誠に興味深い。孝高は文禄2年(1593)に朝鮮に渡海した際、秀吉が計画した晋州城攻略計画に反対し、石田三成、増田長盛らと激しく対立したという。
そこで孝高は、一時帰国して秀吉に相談をしようとしたが、かえって秀吉は孝高が朝鮮から無断で帰国したことを責め、決して面会することはなかった。秀吉は孝高が軍令に従わず、無断で戦線を離脱したと見なしたのである(「益田孝氏所蔵文書」)。
この一件により、孝高は危うく一命を落としかねない状況に陥った。その際、秀吉は孝高や長政のこれまでの軍功を考慮して赦免したが、三成に対して悪い感情を抱いた可能性は高い。三成と作戦をめぐって対立したことは、二人の決裂を決定的なものにしたと推測される。
以後、孝高・長政父子は三成らのグループと袂を分かち、家康与党として重要な役割を果たすようになる。
当時、藤堂高虎は大坂にいたとされており、また福島正則、細川忠興は一次史料により、積極的に襲撃に加担した様子がうかがえない。どちらかといえば、三成襲撃に同意したという程度になろう。
藤堂高虎、福島正則、細川忠興も、完全に家康の与党だった。とはいいながらも、襲撃の具体的な中身は判明していない。少なくとも、大規模な軍事行動が伴っていたとは考えにくい。
襲撃については、水野氏、白峰氏が具体的に明らかにしており、七将による三成への襲撃事件はなかったことが指摘されている。襲撃と言われているのは、三成に政治的責任を負わせて、切腹という制裁を加えるため、訴訟に及んだというのが本質だったという。
また、訴訟に際しては、北政所(秀吉の正室)の仲裁があったことも明白になった。つまり、三成は七将との訴訟に負けて、家康の仲裁によって佐和山城に引退したというのが真相だったのである。石田三成襲撃事件ではなく、石田三成訴訟事件がネーミングとしてふさわしいのだ。
更新:11月24日 00:05