2026年02月19日 公開
2026年03月18日 更新
武田水軍と北条水軍が激突した駿河湾海戦の様子(『北条五代記』10巻より、国立国会図書館蔵)
水軍といえば瀬戸内海の村上水軍が最も有名だが、九州では名門・大友氏が強力な水軍を運用し、関東では北条氏が里見氏と江戸湾の制海権を巡って激しい火花を散らしていた。さらに、海を持たない甲斐の武田信玄も駿河進出とともに「武田水軍」を急造する。各地で繰り広げられた海の覇権争いを紹介する。
※本稿は、『歴史街道』2025年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
九州の名門武家である豊後大友氏は、長期にわたり、水軍を運用した大名である。
大友水軍は、国東半島の北側に位置する岐部庄(大分県国東市)を本拠とする岐部氏、国東半島南岸の真那井(大分県日出町)を本拠とする渡辺氏などが重要な役割を担った。
だが、戦国期の大友氏が一番頼りにしていたのは、佐賀関半島南部の港町である海部郡佐賀郷一尺屋(大分市佐賀関町)を本拠とする若林氏だという。
若林氏が水軍としての活動をするようになったのは、大友義鑑(1502-50)の代以降で、戦国期以前は陸上戦闘に従事していたとされる(福川一徳「豊後水軍についての一考察」)。
また、15-16世紀の若林氏が、「鯛」「塩鯛」「いか」などの海産物を大友当主へ贈り、逆に大友氏が敷網の糸を催促した事例があり、日常的には若林氏が漁労を営んでいたと考えられる。
大友宗麟(1530~87)の代には、若林鎮興(しげおき)が安岐郷(大分県国東市)に攻めてきた毛利氏を相手に防戦。敵船が撤退すると、周防国熊毛郡の室冨(山口県光市室積)まで追った後、敵船1艘を捕らえるなど、水軍の将として活躍している。
この若林鎮興は大友氏から、たとえ小船であろうと多くの船を建造し、不時の船役(出船命令)にすぐに応じられるようにしておくことを命じられている(『若林家文庫』)。
若林氏は水軍の将、漁民、船大工など、多面的な活動をしていたようだ。
水軍というと西国のイメージが強いが、東国にも水軍は存在した。関東の覇者といわれた小田原北条氏の水軍も、その一つである。
小田原北条氏は、明応2年(1493)、初代・伊勢宗瑞の伊豆乱入にはじまり、天正18年に五代・北条氏直が小田原合戦で滅亡するまで、5代100年にわたって関東一円を支配した戦国大名である。
北条氏の水軍は、江戸湾(東京湾)で、安房里見氏の水軍と海上戦を繰り返していた。
現代の東京湾と同じように、戦国時代の江戸湾も、東国の流通を担う大動脈であった。北条氏は江戸湾の西側の武蔵・相模を領国としており、里見氏は東側の房総半島の最大勢力。両氏が江戸湾の制海権を巡って対立するのは必然といえる。
その頃、北条水軍の将として活躍したのが、山本氏と梶原氏である。
山本氏は北条水軍の古参で、伊豆国田子(静岡県賀茂郡西伊豆町)を拠点とし、伊勢宗瑞の伊豆国平定後に帰順したと考えられる。
対して梶原氏は、北条水軍では新参にあたる。伝承では鎌倉御家人・梶原景時の末裔とされ、もともとは紀伊国在田郡名島(和歌山県有田郡広川町)周辺を拠点としていた。
だが永禄5年(1562)に、対里見氏の強力な戦力として北条氏に迎え入れられ、相模三浦郡内に知行地を給付される。
北条が梶原氏を招聘したのは、紀伊の海上勢力が持つ操船、造船などの技術を取り入れるという目的もあったと考えられている。
山本氏と梶原氏は三浦半島の岬に駐在し、江戸湾の警備にあたっていた。しかし、武田氏の勢力が駿河湾に進出してくると、山本氏は本拠の田子に戻り、梶原氏は伊豆長浜城(静岡県沼津市)に在城し、警衛にあたった。
北条氏は、里見氏と天正5年に和睦したものの、天正18年の小田原合戦で滅亡。
その後、山本氏の動向は不明だが、梶原氏は故国の紀伊へ帰り、再び海上にでることはなかったという。
甲斐武田氏は海を持たない甲信を勢力圏としていたため、もともと水軍を保持していなかった。ゆえに武田水軍は、武田信玄が永禄11年(1568)に今川氏領国の駿河国に進出して以降、東の北条氏と、西の徳川氏の水軍に対抗するために編成された。
『甲陽軍艦』品第十七には、武田水軍の陣容は以下のように記されている。
海賊衆
一、間宮武兵衛 船十艘
一、間宮造酒丞 船五艘
一、小浜(景隆) あたけ(安宅船)一艘、小舟十五艘
一、向井伊兵衛 船五艘
一、伊丹大隅守 船五艘
一、岡部忠兵衛 船十二艘 同心五十騎
このうち、間宮武兵衛と間宮造酒丞は、もとは北条氏の被官とされる。
伊丹氏と岡部忠兵衛(後に土屋貞綱に改名)は、今川氏の旧臣だ。小浜氏と向井氏は伊勢湾で活動していた海賊で、武田水軍の主力となった。
このように武田氏は、今川氏旧臣と伊勢海賊などを招致し、比較的に短期間で水軍を築きあげた。
天正8年(1580)4月には、武田水軍の小浜氏と向井氏が伊豆浦に出撃し、郷村数カ所を襲撃した。北条水軍も反撃するが、この時期の武田氏は海上において、北条氏より優勢であったという。徳川方も水軍を編成していたが、たびたび武田水軍に敗れている(小川雄『水軍と海賊の戦国史』)。
天正10年の武田氏滅亡後、武田水軍の小浜氏、向井氏らは徳川家康に組み込まれる。徳川水軍の一員となった彼らは、天正12年の小牧・長久手の戦いや、天正18年の小田原合戦で、海上勢力として活躍した。
後に小浜氏は大坂の船手頭、向井氏は江戸船手頭となり、江戸幕府の海上支配を支えることとなる。
最後に、新たなる史料で明らかになった水軍衆・上野氏をご紹介しよう。
上野氏は豊後の佐賀関を本拠とする。海部郡近海を守るだけではなく、水軍組織の一員として、来航明使を護送し、自らも渡航するなど、大友氏の対明外交政策を支えたという(鹿毛敏夫『大友義鎮国君、以道愛人、施仁発政』)。
水軍の役割は、多岐にわたるようだ。
更新:04月04日 00:05