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伊達政宗の娘・五郎八姫と武田信玄の娘・松姫 数奇な運命を辿った戦国の姫たち

2025年12月22日 公開

鷹橋忍(作家)

戦国時代を生きた女性たちは過酷な運命を精一杯生き抜いた

戦国時代、過酷な状況に置かれたのは武将たちだけではない。武家の女性たちも婚姻を通じて実家と婚家の間を取り結んだり、人質としての役割を果たすなど、覚悟をもって生きねばならなかった。戦国大名の娘として生まれ、数奇な運命を辿った二人の姫、夫・松平忠輝が改易されて父・伊達政宗のもとに戻った五郎八(いろは)姫、織田信忠との婚約が解消されたうえ、実家の武田家が滅ぼされた松姫、二人の歩みをひも解こう。

※本稿は、『歴史街道』2024年12月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

家康の六男と結婚するも夫は配流。伊達政宗の娘・五郎八姫

五郎八姫は、奥州の戦国大名・伊達政宗と、その正室・愛姫(陽徳院)の第一子である。文禄3年(1594)6月、聚楽第屋敷で生まれた。政宗が28歳、愛姫が27歳の時の子だ。「五郎八」という男子風の呼称は、後継者となる男子出生を熱望する政宗により、次回の男子誕生を願って付けられたという。

翌文禄4年(1595)、五郎八姫たちは豊臣秀吉から下賜された伏見屋敷に移り、その後、さらに大坂屋敷に移ったと推定されている。

慶長3年(1598)8月に秀吉が没すると、秀吉が生前に定めた、大名同士の勝手な婚姻を認めないという決まりに背き、翌慶長4年(1599)正月、6歳の五郎八姫と、徳川家康の六男・8歳の松平忠輝との縁約が結ばれた。

五郎八姫と松平忠輝の婚儀は、慶長11年(1606)12月、五郎八姫が13歳、忠輝が15歳の時に行なわれた。婚儀の半年前、五郎八姫は父・政宗に同道し、仙台を訪れている。伏見や大坂、江戸で人質として暮らしていた五郎八姫が、伊達領国に足を踏み入れるのは、生まれてはじめてのことであった。

7月の盂蘭盆には、城内の櫓上から城下の夜景を見物した。その時、政宗の配慮により、諸士屋敷から町屋まで燈籠を掲げ、五郎八姫はより素晴らしい景観を楽しむことができたようである。よい思い出となっただろうか。

慶長18年(1613)6月、20歳の時に、五郎八姫は夫・忠輝の転封先である、高田(新潟県上越市)に移り住んだ。

ところが、元和2年(1616)7月、忠輝は二代将軍・徳川秀忠によって改易されてしまう。60万石の領地は没収され、伊勢国朝熊(三重県伊勢市)に配流となった。そのため五郎八姫は夫と別れ、伊達家の江戸下屋敷に身を寄せた。時に23歳のことである。

五郎八姫は江戸で4年ほど過ごした後に、元和6年(1620)9月、27歳の時、娘を不憫に思った政宗に引き取られ、仙台に移住した。
そして、政宗が寛永13年(1636)にこの世を去るまで、仙台城西麓の西屋敷で暮らした。

政宗の跡を継ぎ、二代藩主となった同母弟の伊達忠宗とは大変に仲が良かったようだ。忠宗は仙台に下向すると、必ず五郎八姫を訪ね、能を楽しむなど、時間を共にしている。

晩年には、松島にある瑞巌寺の雲居禅師、洞水禅師の教えを受けて、仏教に深く帰依していく。
万治元年(1658)7月、親しかった弟の忠宗が没すると、落飾し、天麟院と号した。寛文元年(1661)5月8日、仙台城西屋敷にて、68歳で息を引き取った。

 

元婚約者に城を落とされた武田信玄の娘・松姫

松姫は永禄4年(1561)、甲斐国の戦国大名・武田信玄と、側室の油川氏の娘(香林院)の間に生まれた。信玄が41歳、油川氏の娘が33歳の時の子である。

同母の姉に信濃の国衆・木曾義昌の妻となった真竜院、兄に信濃安曇野の国衆・仁科家を継いだ仁科盛信、駿河駿東郡の国衆・葛山家を養子継承した葛山信貞、妹に上杉景勝の妻となった菊姫がいる。

松姫は健やかに成長し、永禄10年(1567)、7歳の時、織田信長の嫡男・信忠と婚約したとされる。信忠は11歳だった。

信玄と信長の間には、永禄8年(1565)11月に同盟が結ばれており、信玄の四男・勝頼は、信長の養女・龍勝寺殿(美濃の国衆・遠山直廉の娘)を正室に迎えていた。通説では、この龍勝寺殿が永禄10年に没したため、信長の申し出により信忠と松姫の婚約が相成った。

だが、その後、武田、織田両家は対立し、元亀2年(1571)頃に破談になったとされてきた。

しかし、実際に龍勝寺殿が亡くなったのは元亀2年9月であり、武田と織田の間には元亀元年(1570)から、松姫と信忠の縁談が出ていた。この時点では進展しなかったが、元亀2年の龍勝寺殿の死去により、縁談は再び動き出す。元亀3年(1572)閨正月に、婚姻の準備が進められたとされる(遠藤珠紀「織田信長子息と武田信玄息女の婚姻」)。

だが結局、同年中に信玄と信長は断交し、縁談は立ち消えとなった。松姫、12歳の時のことである。以後、松姫は結婚をどれほど勧められても、固辞し続けたという。

翌元亀4年(1573)4月に信玄が死去し、勝頼が家督を相続すると、松姫は兄の仁科盛信の庇護下に置かれた。天正10年(1582)2月、織田勢が信濃、甲斐へと侵攻した際には、盛信とともに高遠城(長野県伊那市)にいたとされる。

高遠城は3月2日、松姫の婚約者であった織田信忠の猛攻を受けて落城。盛信をはじめ将兵たちは討死したが、松姫は盛信の示唆により、事前に、新府城(山梨県韮崎市)に避難していた。

3月3日、勝頼は小山田信茂の岩殿城に落ち延びるために、妻子らとともに新府城を出発したが、信茂の離叛に遭い、3月11日、田野の地で滅亡した。

この時、松姫は勝頼の一行とは別行動をとり、数人の一族の子女を連れて、栗原の海洞寺(山梨市)に滞在したのちに、武蔵安下山(金照庵とされる)に隠棲。その後、横山村(東京都八王子市)に移り、自庵を立てた(黒田基樹『武田信玄の妻、三条殿』)。

松姫は剃髪して信松尼と号し、一族の菩提を弔い、余生を送った。
慶長18年(1613)頃からは、二代将軍・徳川秀忠より庶子・幸松丸(後に会津藩初代・保科正之)の養育を託された異母姉の見性院(穴山信君の正室。母は信玄の正室・三条殿)とともに、その役目に尽力した。

元和2年(1616)4月には病に伏し、幸松丸や、はせ参じた武田の遺臣である千人隊や同心衆たちが治癒を祈念したが、4月16日、56歳で、この世を去った。

悲劇を乗り越え、力強く生きた松姫は多くの人々の心に残ったのだろう。松姫が織田勢から逃れる時に越えたと伝わる「松姫峠」(山梨県大月市と山梨県北都留郡小菅村の間)、松姫鉱泉(大月市)など、松姫の名を冠した地がある。その生き様は、これからも語り継がれていくに違いない。

プロフィール

鷹橋忍(たかはし・しのぶ)

作家

昭和41年(1966)、神奈川県生まれ。洋の東西を問わず、古代史・中世史の文献について研究している。

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