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児玉源太郎と後藤新平 満洲経営の幕開けの歴史に秘された人間ドラマ

江宮隆之(作家)

 

児玉と後藤の会談

児玉の構想の中心にあったのは、南満洲鉄道(満鉄)であった。明治39年1月、満洲経営委員会の委員長に任命された児玉のこうした主張は政府にも理解された。7月に発足した満鉄設立委員会でも、その委員長に就任した児玉は、以前から考えていた通りに「会社形態で経営される満鉄こそ、文官統治体制をとるべきだ」という主張に沿って、その実行に着手した。

つまり、満洲経営の根幹である満鉄は単なる鉄道会社ではなく、国家プロジェクトに従って経営されるべきで、そのためには巨額の国家資本を投入して、社会環境や住居環境を整えるという大きな計画の上に成り立つものとしたのである。

事実、満鉄の資本金は国家予算の半分に当たる2億円という巨大なものであった。そして、1億円は政府が出資し、残る1億円は株式募集で賄うという方針が立てられた。

児玉は、さらに満洲における軍部の特権的な立場を縮小することを考えていた。それは「強い軍部の存在は、清国ばかりか米英などをも刺激する」という危惧から来ていた。旅順軍港への一般船舶の入港制限など、厳しい軍事的規制を撤廃・緩和することが、満洲経営の根幹だというのである。

ところが結果的に、満鉄の業務監督権は関東都督にあるとされた。遼東半島の大連、旅順などの租借地は「関東州」と名付けられ、都督は陸軍大将あるいは中将が務めたために、陸軍の影響力は極めて強かった(のちに、この関東都督府が「関東軍」と「関東庁」に分離し、関東軍は日本の大陸政策を左右する存在となる)。

それでいながら、政府側の満鉄責任者は外務大臣である、というのが桂太郎の後継首相になった西園寺公望の見解で、満鉄の対外交渉事項の監督権は外務省が持つことになった。児玉にすれば、これでは満鉄経営は主体がないのも同然だという思いであった。

もっとも、満鉄経営に陸軍が影響力を持つとはいえ、児玉の主張する民政優先の経営方針が否定されたわけではなかった。その上で、満鉄を経営する初代総裁の人事が話題に上がった。初代総裁は、児玉にとって「盟友」ともいえる後藤新平が候補に上がり、これには伊藤も山県も西園寺も異論はなかった。台湾での実績が加味されていたことは確かであった。そこには、後藤ならスムーズな満鉄経営を行なうに違いないという児玉の思惑もあった。

しかし、西園寺らから初代総裁の要請を受けた後藤は、その就任を蹴った。理由は(1)台湾は日本国領土であり住民はすべて日本人となっているが、満洲は清国領土であって、住民も清国人、ロシア人、日本人が混在している(2)台湾統治では民政移管に際して総督の児玉が全面的に支持してくれた(3)半官半民の満鉄は東インド会社のような軍隊を持たず、治安を維持できるか不安が残る(4)清国領土である満洲への日本移民をどのように進めればよいのか方針が不明――などであった。

匙を投げた西園寺は、後藤と児玉の会談を要請した。つまり児玉に後藤の説得を依頼したのである。後藤こそ適任、と考える児玉は、早速話し合うことにした。明治39年7月22日の夜、後藤は児玉邸を訪れた。

二人の間には激しい論争もあった。児玉は「満鉄経営で君がやりにくいことが起きれば、必ずこの児玉が力を尽くす。今までの俺たちの関係を考えれば、それは分かるだろう」と、懇願に近い形で説得した。しかし、後藤の返事は「考えさせて欲しい」というものであった。

翌日、変事が起きた。

 

児玉の突然の死、そして「世界を繫ぐ鉄道」の実現へ

7月23日早朝、児玉邸に電話を掛けた後藤は、児玉の異変を知る。前夜か早朝か、児玉は息絶えていた。脳溢血である。55歳。早過ぎる児玉の死を前にして、後藤は遂に満鉄総裁を引き受けることになった。引き受けることが、児玉への恩返しであった。

こうして満鉄の初代総裁になった後藤は、児玉の志を引き継いで、軍部を極力押さえ込む方法を取った。後藤は満鉄の監督官庁である関東都督府の最高顧問も兼任することを、総裁就任条件にしていたのだ。「満洲経営の中心はあくまでも満鉄である」という児玉の遺志に添ったのである

後藤が目指した満鉄経営とは、単に鉄道を運営する会社ではなく、満鉄を核にして都市開発と産業振興を行なう複合企業体であった。これには国も大きく関与する。さらに満鉄は、鉄道事業とその付帯事業の用地内で土木、教育、保健衛生などの施設の整備も進めた。

後藤は、満鉄経営のキャッチフレーズとして「文装的武備」を唱えた。これは、文治で産業経済を発展させ、日本からの移民が満洲に定着すれば、多大な費用を掛けて軍隊を駐留させるよりも効果は大きい、鉄道をきちんと整備しておけば緊急時には兵員輸送に使用できる、ゆえにこの文装的武備の要諦は経済発展にあり、人々の文化力を養うことである、というものであった。

つまり、「軍人の武断政治に対してのアンチテーゼともいえる文治・民政」こそが、後藤がこの言葉に秘めた「児玉の遺志」であった。こうした満鉄経営策の中心には、台湾統治と同様に、若く、力のある人材の登用もあった。

「満鉄は午前8時の人間でやる」を後藤は持論としていた。「午前8時」つまり「若い人間」でやる、という意味であった。中村是公、国沢新兵衛、久保田政周など10人ほどがその「午前8時の人材」であった。

後藤の満鉄経営は、大連中心主義を取った。大連は不凍港であり、満鉄の始発駅でもある。さらに長春、奉天、安東など14都市の都市計画も立案しようとした。街路、堤防、橋梁、上下水道、公園、市場、墓地までもが計画にはあった。例えば、大連市の中央広場はパリをモデルにして8本の放射街路が計画され、最大幅員三十間(約54メートル)という豪壮なものであった。

さらに後藤は、外交にも力を入れた。ロシアとの交渉の結果、満鉄とシベリア鉄道の連絡運行を取り付け、これによって明治40年(1907)には日露協商を成立させた。一方でアメリカへの配慮も怠ることなく、鉄道の線路幅に世界標準の広軌道の4フィート8インチ半(約143センチ)を採用して、レール、機関車、客車、貨車などをアメリカに発注した。

児玉が夢を見、後藤が方針とした「世界を繫ぐ鉄道・満鉄」の大構想は一歩一歩実現に向かって走り出していた。総裁就任から1年8カ月後、第二次桂太郎内閣が組織されると、後藤は逓信大臣に起用された。満鉄の後任総裁には中村是公が昇格して、児玉・後藤の志は次代へと引き継がれることになったのである。
 

 

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