ここで、長篠合戦の背景になった可能性を持つ、もう一つの要因を指摘しておきたい。それは鉄炮玉の原材料である鉛、とりわけ国産鉛に関してである。
2021年5月19日に放送された、NHKの歴史番組「歴史探偵」は「長篠の戦い」を特集したものだった。私は、この番組の「長篠の戦い」の監修を担当し、ゲストとして出演した。
そして驚愕の事実を知った。番組の企画で、長篠古戦場出土の鉛玉のうち、国産鉛のものと、複数の国内鉱山のサンプル鉛の化学分析が実施され、同位体比を分析したところ、なんと長篠城近くの睦平鉛山(むつだいらかなやま)から採掘された鉛と一致する玉の存在が明らかとなったのである。
睦平鉛山は、現在の新城(しんしろ)市睦平に所在する鉱山跡だが、これに関連する徳川家康判物(はんもつ)が残されている。
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(花押)
菅沼常陸介・同半五郎知行の境目に鉛があるとのことだ。そこで、諸役を一切不入免許にする特権を与えることにする。もしまた分国中で、銀や鉛が発見されたら、大工職を両人に申しつけることにしよう。
元亀二 未辛 年 九月三日 高野山 仙昌院 小林三郎左衛門尉殿
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これは、徳川家康が発給した判物である。これによると、山家三方衆菅沼常陸介定仙(さだのり)と、菅沼半五郎定満の所領の境界から、鉛が発見された。この情報は、仙昌院、小林三郎左衛門尉より、家康のもとに報告された。
家康は、この二人に採掘を命じ、諸役免許の特権を与え、引き続き、銀や鉛山の探索を命じている。井代菅沼定仙の居城井代城も、菅沼定満の領地山吉田(やまよしだ)も、睦平鉛山の近くにあり、まさに境目に相当する場所である。この文書に登場する鉛の発見場所が、睦平鉛山であることは間違いなかろう。
睦平鉛山が元亀2(1571)年から稼働しているとすれば、元亀3年10月から天正元(1573)年9月の約1年間を除き、この地域を支配していたのは徳川家康なので、戦場から発見された睦平鉛山産の鉛による鉄炮玉を使用したのは、徳川軍とみて間違いなかろう。
長篠を中心に、信濃国境にかけての奥三河には、津具(つぐ)金山などの鉱山が点在していることで知られる。武田氏が、津具金山などで金の採掘を行っていたことは、残されている石臼の形態などから推定されているところである。
今回、その重要性が明らかとなった睦平鉛山などの存在を含めて考えると、武田勝頼と徳川家康が、奥三河の争奪に執念を燃やしたのは、徳川領国の帰趨を左右する軍事に重要な地域であることもさることながら、鉱山の確保という理由があるのではなかろうか。
更新:11月21日 00:05