2021年01月15日 公開
2022年06月15日 更新
本能寺の変に際して、足利義昭が背後で光秀と関係を結んでいたという説もある。
天正元年に信長と決裂した義昭は、天正4年(1576)に備後鞆(広島県福山市)に押し掛け、毛利輝元の庇護を受けた。そこに誕生したのが「鞆幕府」だ。
室町幕府の存続が強調される一方、内実は毛利氏頼みの陣容で、幕府と呼べる代物ではないという評価もある。
天正10年6月12日付の「土橋重治宛 明智光秀書状」は、「上意」つまり義昭の上洛を支援する旨を、光秀から反信長派の紀州・土橋氏に伝えたことを記す。
これにより、本能寺の変が勃発する前に、光秀と義昭が連絡を取り合っていたとされ、足利義昭黒幕説の根拠の一つとなった。しかしこの史料は、光秀が義昭の上洛への支援を表明しただけであって、二人が事前に連絡を取り合っていたと断言できない。
さらに、二人が関係を持っていたならば、義昭の最大の庇護者である毛利氏に、「光秀謀反」の情報を与えなかったことにも疑問が残る。
近年、本能寺の変の要因として有力視されているのが、信長による四国政策転換説である。
当初、信長は土佐の長宗我部元親に対して、「四国の切り取り自由」を承認していた。このとき、信長と元親の間の取次を担当していたのが光秀だった。
光秀は配下の斎藤利三の義妹を元親の妻として送りこみ、互いの関係強化に努めていた。元親は天正9年(1581)頃までに、阿波・讃岐のそれぞれの一部をも支配下に収め、四国統一も目前に迫っていた。
ところが、天正9年頃に信長が四国政策を転換した。信長は元親の「四国の切り取り自由」を撤回したうえ、取次役の光秀を罷免した。これにより、元親と信長の関係は破綻し、光秀も取次役としての面目を失した。立場が危うくなった光秀は、信長を討とうと決心したという。
信長による四国政策の転換説は、良質な史料に恵まれている。
2014年に発見された「石谷家文書」には、斎藤利三が実兄・石谷頼辰の義父・空然 (石谷光政)に出した書状があり、そこには、四国政策の転換を承服しない元親を諫めるため、頼辰を派遣する旨とともに、元親の軽挙を抑えるように依頼する言葉が並べられている。
これによって、信長と元親が対立関係にあったことと、利三が元親に働きかけを行ったことが確認される。この文書の出現により、信長と元親との関係はより鮮明になったが、光秀の動機を解明したかと言えば、まだ疑問が残る。
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これらの他にも、信長非道阻止説、徳川家康黒幕説、羽柴秀吉黒幕説、本願寺黒幕説、堺商人黒幕説、イエズス会黒幕説など、さまざまな説が提起された。
現段階で言えることは、どの説も良質な史料による裏付けには乏しく、決定打に欠けるということである。
このように、光秀が本能寺の変を起こした動機を探るというのは、現状極めて困難である。いずれにしても、光秀が信長に対して、なんらかの不満、恨みなどがあったということだけは言えるだろう。
更新:11月24日 00:05