2021年01月15日 公開
2022年06月15日 更新
琵琶湖岸の坂本城跡と明智光秀像(滋賀県大津市)
本能寺の変で明智光秀が織田信長を討った理由については、これまでも多くの説が提唱された。研究が進み、従来説の誤りが指摘されてきている一方で、いまだに説は定まっていない。
明智光秀が織田信長に反旗を翻したのは、なぜなのか。背後で糸を引く黒幕はいたのか。その概略を紹介する。
※本稿は、『歴史街道』2021年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
【PROFILE】渡邊大門 歴史学者
昭和42年(1967)、横浜市生まれ。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、(株)歴史と文化の研究所代表取締役。著書に『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』『明智光秀と本能寺の変』『本能寺の変に謎はあるのか?』などがある。
まずは、よく知られた「怨恨説」である。
天正3年(1575)、信長は丹波攻略を光秀に命じたが、途中から八上城主の波多野秀治ら三兄弟が背き、苦戦を強いられた。そこで光秀は、母を人質として八上城に預け、波多野三兄弟の身の安全を保証したうえで降伏させた。
ところが、信長は約束を破り、波多野三兄弟を殺害してしまった。そのため、光秀の母は八上城内で波多野氏の家臣に殺害された。光秀は母が見殺しにされた恨みから、信長を討つに至ったという(『総見記』)。
また、天正10年(1682)、本能寺の変の直前に、光秀は信長から支配地の近江・丹波を取り上げられ、代わりに石見・出雲に移されることになっている(『明智軍記』)。光秀は敵対する毛利氏が支配する石見・出雲に出陣し、それを切り取れと命じられたのだ。
このような仕打ちを受けた光秀は左遷されたと思い、信長を恨んだという。これらの説が根拠としている『総見記』と『明智軍記』は、いずれも江戸時代に成立したものだ。
ほかにも、光秀が信長によって辱められたという話がいくつも伝わっているが、それらの史料の信憑性については疑問視されている。
本能寺の変における黒幕として有力視されたのが、天皇・朝廷である。信長が天皇・朝廷の権威を否定したと考えられてきたためだ。
天正元年(1573)12月、織田信長は正親町天皇に譲位を申し入れた。天皇はこれを受け入れ、翌年の春に新天皇が誕生する予定となった。この、信長が正親町へ譲位を申し入れるという行為が、天皇の地位から引きずり下ろす、非道な行為であると理解されてきたのである。
しかし、当時は早々に天皇の地位を辞し、上皇になるのが慣習となっていた。逆に、現職の天皇のままで死を迎えるのが異常事態であった。
つまり、信長の譲位の申し入れは、非道な行為ではなく、正親町は逆に感謝の意を表していたと考えられる。
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更新:11月21日 00:05