ところが七尾城は、謙信の再来襲と同じくらい深刻な危機に晒されていた。城内には伝染病が蔓延していたのだ。大人数での籠城となれば排泄物も相当な量になる。処理が追いつかず、飲料水なども汚染されたと思われる。
城内では死者が相次ぎ、閨7月23日には、当主の畠山春王丸も僅か5歳で病没した。
城内の危機に、親織田派の長続連は信長へ使者を送り、救援を要請した。信長は受諾し、8月8日、柴田勝家を大将とする軍勢を加賀に送った。信長も、七尾城の存亡はともかく、謙信の進出は防ぎたかったに違いない。
だが、能登・加賀の門徒たちが謙信の味方になっているため進軍がままならず、9月に入っても織田の援軍は到着しなかった。それでも、天下の堅城は陥ちず、籠城は続いた。
そこで謙信は起死回生の一手を打つ。親上杉派の遊佐続光に、内応を呼びかける密書を送ったのだ。内容は「内応すれば、畠山氏の旧領および、長一族の地を与える」だったという。
遊佐続光・盛光父子は、上杉氏への内応を決断する。温井景隆と三宅長盛らも同意し、長綱連にも内応を持ちかけた。だが、「信長に援軍を要請しているから降伏はできない」と長綱連はこれを拒否した。
そのため遊佐続光は、9月15日、綱連や続連らを軍評定にかこつけて自宅に招き、暗殺に踏み切った。いわば、クーデターである。
遊佐続光の手引きによって、謙信は一気に軍勢を七尾城に投入した。
どれほど堅固な城であろうと、中の人間に裏切られては無力である。その日のうちに七尾城は陥落した。鉄壁の七尾城の唯一の弱点は、「人心」だったのだ。これを突いた謙信の作戦勝ちだろう。
百人あまりの長一族はことごとく討たれ、助かったのは信長のもとに援軍を要請に行った連龍と、綱連の末子・菊末丸のみであった。
ここに、169年の長きにわたり続いた能登畠山氏は滅亡し、「七尾城の戦い」は幕を下ろした。
七尾城陥落の余韻に浸る間もなく、謙信は9月17日に能登南部の末森城を攻略した。さらに上杉軍は、23日に手取川で、援軍に駆けつけた柴田勝家ら織田軍に大勝したと伝わる。
世に有名な「手取川の戦い」だ。勝家は全軍が手取川を渡り終えるまで、七尾城の陥落を知らなかったという。
謙信は、26日に七尾城の普請に取りかかった。このとき登城した謙信は、その絶景に感嘆し、「聞きしに勝る名地で、加賀・越中・能登の要にあり、要害は山海相応し、海や島々も、絵にも画けない景勝」と書き記している。長年の悲願が達成した喜びが伝わるようだ。
喜びもつかの間、謙信は天正6年(1578)3月9日、春日山城で倒れ、意識不明のまま、13日にその生涯を閉じた。享年49、越中・能登平定の約半年後のことである。
謙信を手こずらせた七尾城は、落城後、上杉方の部将が入った。その後、信長から能登を与えられた前田利家が入城するも、天正17年(1589)頃に廃城となった。
現在、七尾城は「五大山城」に数えられ、国指定の史跡となっている。日本城郭協会による「日本一〇〇名城」にも選定された。
七尾城跡には、野面積みの高い石垣や、深い空堀や土塁などの遺構が良好な状態で残り、時を超えて謙信との激戦と、自身の堅城ぶりを今に伝え、訪れる人々を魅了し続けている。
更新:11月23日 00:05